黄金の瞬~61~
段至瑞軍から離れた印進は血気に逸りながらも、戦術家として冷静であった。
「正面から大軍に当たるのは愚の骨頂だ。我らが勝つ方法はひとつ。夜陰に紛れ章堯軍本陣に接近し、章堯の首を取ることだ」
印進が導き出した作戦は夜襲によって総大将である章堯を倒すことだった。実は新判にある岳全翔も同じような作戦を持っていた。
『数で劣る我らが章堯軍に勝つには戦場で章堯を倒すしかない。これは今回の出征だけではなく、いついかなる時でも通用する』
段至瑞軍が出発した後、岳全翔は猪水宣相手にそのようなことを語っていた。但しその内容は印進のような破れかぶれなものではなく、もっと緻密かつ大胆なものだった。
ともかくも印進は敵に見つからぬように理葉に接近した。敵に悟られぬように兵車を使わず、わずかに物資を運ぶ荷馬車を三乗ほど引きつれるだけだった。本隊から離れて三日後、印進は理葉近くまで進出した。
先に理葉に到着し、陣を敷き終わった章堯は、段至瑞軍の来襲を待ち構えていた。その一方で夜襲にも警戒していた。
「敵は劣勢だ。これを逆転するには奇襲の類を行うに限る。少なくとも俺ならばそうする」
章堯は奇襲攻撃を警戒させていたが、印進部隊の密行は見逃していた。
戦争というのは遂行者にとってままならぬものであった。
章堯は印進部隊の密かな行動に気が付いていなかった。そのまま印進が章堯の本営を夜襲していれば、あるいは章堯は理葉の地で命を落としていたかもしれなかった。しかし、完璧なまでの密行を行っていた印進は、章堯の本営の正確な位置を見失っていた。
「あれが章堯の本営ではないか?」
印進自ら最前に立ち、章堯軍の陣容を確認した。実は印進が目視していたのは章堯の本営ではなく、左沈令の陣であった。どうして印進が錯誤したのかというと、左沈令の陣に『章』の文字を染め抜いた軍旗が掲げられていたからだった。印進の認識では自分の苗字を染め抜いた軍旗は自分の本営にしか立てないものであったが、章堯は自分の軍旗を左沈令達部下にも渡していた。これは本営の位置を欺くものではなく、単に軍としての統一感を演出するためのものであった。
「よし、今宵、夜襲を仕掛けるぞ。誰か一人でいい。章堯の首を取れ」
自分が見ているのが章堯の本営ではなくことを知らぬ印進は部下と督励して夜襲を決意した。
印進の標的とされたことを知らない左沈令であったが、歴戦の老将は戦場における何事かをかぎ取っていた。
「風が強くて冷たいな。こういう夜は危険なことが起こるものだ。敵兵の姿が見えぬからと言って気を抜かないように伝えろ」
左沈令に根拠があったわけではない。敵軍の姿がまだ見えないことで弛緩している兵士達を戒めたつもりだった。夜回りの兵士達は気を抜くことなく周辺を巡回した。その結果、すんでのところで印進部隊を発見することができた。
「我が部隊の左翼に不審な集団あり」
就寝していた左沈令はその報告を受けると寝台から跳ね起きた。
「すぐに総員を叩き起こせ!それと章将軍、隗将軍にも伝令を送れ。単なる奇襲に終わると思うな。全面攻勢かもしれんぞ」
左沈令はまさか小部隊の単独による奇襲であるとは思っていなかった。奇襲で壊乱された後に全面的な攻勢がある。それが戦の常道であるため、左沈令はそうと信じて疑っていなかった。
敵陣の動きが急に活発になった。その様子は印進からも視認できた。
「悟られたか!こうなったら一人でも多くの敵を屠れ!」
ここまで来て撤退するわけにはいかない。印進は突撃を命じた。これに対して左沈令配下の兵士達は迎撃した。奇襲に気が付いたといえ迎撃態勢は不十分であり、左沈令軍は次第に押され始めた。
「醜態を見せるな!章将軍の旗下に入っての初陣だぞ!」
左沈令は鎧も着ず、鬼の形相で兵士達を叱咤した続けた。
奇襲を見破られつつも突撃を命じた印進は、戦いを進めているうちに戦っている相手がどうやら章堯軍ではないことに勘づき始めた。
「将軍、この敵は左沈令ではないでしょうか?」
配下の一人が進言してきた。見知った左沈令配下の将兵がいたと言うのである。
「やはりそうか……」
印進は悩んだ。目の前の敵が章堯でないのなら、当初の作戦の目的を果たすことができない。そうなればここでの戦闘を続ける意味はないのだが、撤退をしてしまえばこれまでの戦闘が完全に無駄になってしまうのも惜しい気がしてきた。
『戦局は我が方が押している。このまま押し切れば、左沈令を切り崩すことができるかもしれない』
印進が奇襲することは段至瑞に伝えてある。段至瑞が戦場での嗅覚に優れていれば、すぐに軍を動かしてくるはずだ。
「攻撃の手を止めるなよ!相手がだれであれこっちが押しているんだ。敵陣を寸断しろ!」
印進は勝機と信じ、戦闘の続行を命じた。




