黄金の瞬~59~
煩雑さを避けるためにこれよりは印国側を章堯軍、海嘯同盟側を段至瑞軍と称する。この両軍はほぼ同じ頃に準備を終え進軍を開始した。
章堯軍は大軍である。進軍速度は章堯軍の方が遅くなるはずだったが、段至瑞軍の方がゆるやかになっていた。それには理由があった。段至瑞軍は自分達が印中員を奉じて印国のために戦いに来たということを宣伝して回らねばならず、これが足かせとなっていた。
「まずいな……」
この状況に危機感を持っていたのは印進だった。若いながらも戦場に立ってきた印進からすれば、段至瑞軍の遅さは致命的に思われた。
「戦とは敵よりも先に優位な地点を確保しなければならない。この遅さでは後手を踏む」
それが戦の常套ではないか。段至瑞とはなんと戦を知らぬ男だ。印進は声を上げて叫びたかった。しかし、客将という立場上、言いたいことも言えなかった。印進にできることは自分が陣中にあることを主張し、少しでも味方を増やすことだった。
しかし、思うように募兵が進まなかった。当然と言えば当然のことだった。新判に近い範囲に駐屯する印国軍の将兵は、常に海嘯同盟との戦闘に晒されてきたので、少なからず海嘯同盟に嫌悪を抱いている。いくら印中員を奉じているといえ、味方しろと言われても聞けるはずがなかった。
焦れているのは段至瑞も同様であった。印中員を奉じている自分達が新判を出るとすぐに三千、五千といった兵士が参集しているものだと思っていた。少なくとも石豪士はそう豪語していた。
『話が違うではないか!』
段至瑞は今年で四十歳を迎える。執政官の首座である石豪士を義理の兄にもつ段至瑞は、その恩恵を受けて出世し、現在の生活を得ていた。が、ここから先へ進むとなれば、地位に相応しい功績が必要になってくる。その絶好の機会を義兄は与えてくれたのだ。そして、自分にはそれに応えるだけの才能があると思っていた。しかし、未だ才能を発揮する舞台にも立っていなかった。
「印中員を呼ぶか……」
新判に到着して早々、段至瑞は決断した。今回の征討の象徴である印中員を本島に留め置くようにしたのは段至瑞の判断であった。象徴を奪われては征討の大義を失ってしまうので、一戦二戦して勝ったところで印中員を呼ぼうと考えていた。だが、こうも募兵がうなくいかないのであれば、印中員自身に表に立ってもらわねばならなかった。段至瑞は本島に連絡し、印中員が到着するのを待った。このことが段至瑞軍の行軍をさらに遅くさせていた。
段至瑞軍が進発してからも本島からはひっきりなしに物資が届けられる。それらは新判に留め置かれ、必要に応じて段至瑞軍に送らなければならない。岳全翔はその仕事をせねばならなかった。
漫然と職務をこなす日々を過ごしているうちに、その日に到着した輸送船に印中員が同乗していることを岳全翔は知った。
岳全翔が桟橋近くで到着した船から降ろされる荷物の格納先を指示していると、印中員の方から会いに来た。
「岳殿……申し訳ないと思っている。あれだけ御忠告いただいていたのに、このような事態になってしまった」
印中員は深く頭を下げて謝した。岳全翔は印中員に対して怒ることもできず、だからといって同情することもできず、口ごもるしかなかった。
「私は岳殿に何を言われても仕方ないと思っています」
「私に謝られても困るんだけどな」
「しかし……」
「でも、ひとつだけ聞かして欲しい。印殿、あれだけ嫌がっていたのにどうして擁立されることを引き受けたのですか?」
「どうしても印という血筋からは逃れることができなかったんです。私は弱い人間だったんです」
失礼します、と言って印中員は岳全翔の横を歩き去った。岳全翔は呼び止めることはなかった。きっと印中員と会うのはこれで最後になるだろう。そういう予感があるだけに岳全翔はどっと疲れた。
夕刻になり、守備隊の本営に戻ると芙鏡が待っていた。
「あの……今日の舟に母は乗っていましたでしょうか?」
芙鏡は本島から船が到着する度に聞いてきた。岳全翔が首を振ると、芙鏡は残念そうに肩を落とした。
「本島には芙桃殿の様子を窺う書状を出しているのですが、連絡がありません。滅多なことはないと思いますが……」
そうですか、と芙鏡は傍から見ても気の毒なぐらいに落胆していた。
「芙鏡殿、どうですか?これから夕食でも。石硝に誘われていますので、彼女と一緒でよければ」
少しでも元気づけようと芙鏡を夕食に誘った。芙鏡は僅かに笑顔になり、はいと答えた。




