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七国春秋  作者: 弥生遼
黄昏の泉
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黄昏の泉~8~

 『主よ。今こそ剣を抜くのです』

 声が聞こえた。耳に入ってきたと言うよりも、脳内で鳴り響くような声であった。一体、誰が語りかけているのかと戸惑ったが、迷っている暇はなかった。樹弘は初めて家宝と言われてきた鈍らを鞘から抜いた。

 ぎらっとした輝きが現われた。母からは鈍らと聞いていたが、刀身は刃こぼれもなく、美しく磨かれていて、樹弘の姿を映し出すほどであった。見ているだけで身が引き締まり、ややもすればその刀身から発せられている気迫だけで、樹弘自らの体も傷を追いそうな雰囲気をかもし出していていた。

 「へえ。いい剣を持っているじゃねえか!」

 賊が新たな獲物を見つけ、興奮したように鼻息を荒くした。俺に寄越せ、と喚いた賊が剣を振り上げて襲い掛かってきた。しかし、その動きは非常に鈍く見えた。鈍いというよりもほぼ動いていないようであった。

 一歩踏み込んだ樹弘は剣を横に一振りした。その一撃で瞬く間に賊の胴は二分された。

 『何だ……この剣は……』

 切れ味だけではない。明らかにこの剣を手にして敵に向かった時、その動きは極めて遅く見えた。だが、それは一瞬だけのことであり、今は普通の動きの中にいる。

 『これがこの剣の力か?語りかけてもきた……』

 世の中には魂を持った武具があるという。この剣もその一種なのだろうか。

 だが、今はその様なことを考えているゆとりはなかった。警護者は次々と倒され、賊の包囲が縮まってきていた。

 「この場を脱出するぞ。樹君、馬は扱えるか」

 蘆明もこの場の危機を感じ取っていた。すでに先頭の馬車は老人が荷台に乗り、馬を進めていた。

 「でも……」

 樹弘は戸惑った。戦っている警護者もいれば、地面に倒れながらもまだ息がある者もいる。それらを見捨てていくと言うのか。

 「急げ!このままでは全滅するだけだ」

 蘆明は樹弘の肩を押した。

 「くそっ!」

 樹弘は馬車に飛び乗った。馬の尻を叩き、馬車を走らせた。三台のうち、樹弘の馬車が殿になり、蘆明もその荷台に乗り込んだ。

 「逃げるぞ!追え!」

 賊の頭らしきが叫び、賊徒達が追いかけてきた。荷台を引く馬車と騎馬とでは速度が違う。いずれ追いつかれてしまう。

 「蘆さん!どうにかしないと!」

 「樹君。君は前だけを見てろ!」

 そう言われながらも気になって少し振り向くと、蘆明は今までもっていなかったはずの弓を手にしていた。よく見てみると、荷台の中の荷物に掛けられていた布がはがれていて、弓や矢がずらりと並んでいた。蘆明はそのうちのひとつを拝借したのだろう。間断なく矢を放っていった。蘆明の弓の腕は素晴らしく、賊は次々と撃ち落されていく。やがて追撃してくる賊がいなくなった。

 「油断するな。今は只管走りぬけろ」

 蘆明は力なく言った。樹弘達は夜通し、馬車を走らせることになった。


 日が昇り始めた頃、三台の馬車はようやく止まった。小さな湖を発見したので、そこで馬に水を飲ませて休ませることにした。そこでようやく被害状況を確認することができた。

 「荷は無事だが、随分とやられたな」

 十名いた蘆明の部下は四名になっており、老人の使用人もいなくなっていた。

 「しかし、樹君がいなければもっと損害は大きかっただろう。見事な剣技であった」

 蘆明はそう褒めてくれたが、嬉しくはなかった。目の前で人が死に、自らも人の命を絶った。いくらが相手が賊とはいえ命のやり取りをした重みは、まだ生々しく感触として残っていた。

 「そんな……僕は自分の身を守るのに精一杯でした。寧ろ、蘆さんの部下を助けることができませんでした」

 「彼らは武人だ。相手が賊とはいえ、切り合いで死んだとなれば、それは自身の責任だ」

 蘆明の言い様はひどく冷酷に聞こえた。しかし、あるいはこれが蘆明の言う武人の精神なのかもしれなかった。

 「そんなのことはひとまずいい。それよりも、ご老人。積荷のことだ」

 蘆明は荷台に腰を下ろしている老人に詰め寄った。老人は眉をひそめた。

 「積荷のことを聞かないのが礼儀であるし、今もそのつもりでいる。しかし、見てしまった以上は仕方あるまい。積荷とは武具ではないか」

 少なくとも樹弘も一台分は積荷を見てしまった。樹弘が馬を操った馬車の荷台にはかなりの量の弓と矢が積まれていた。

 「あの馬車には鉄剣と革の鎧が積まれていた。もう一台には書物か……。これを泉春に運ぶということは相房の軍に納めると言うことか!」

 蘆明は怒りに震えていた。彼は部下を失った悲しみよりも、老人が仇敵である相房に組していることに感情が動かされたらしい。

 「落ち着け、蘆君」

 「仕事がないとこぼしておきながら、相房に組して利益を得ようとは……奸物め!」

 「よせ!」

 樹弘が止める間もなかった。蘆明は剣を抜くと躊躇いなく、老人を切りつけた。ぎゃっと悲鳴を上げた老人は、血を流しながら仰向けに倒れ、それ以後動くことはなかった。

 しばらく沈黙が続いた。樹弘は呆然とするだけであり、蘆明の部下達も絶句しているようであった。蘆明ひとりの荒い息遣いが聞こえた。

 「蘆さん、殺すことはないでしょうに……」

 樹弘はようやくそう言うことができた。

 「相房に組する者に同情する余地はない」

 蘆明は懐紙で剣についた血を拭った。己の行いに一片の後悔もない所作であった。

 「この武具を接収して、貴輝でお立ちになった公子の下へ馳せ参じるぞ」

 蘆明が部下に命じた。樹弘は言葉が出なかった。今、蘆明がやっていることは賊のそれとまるで変わりなかった。決断の速さを考えると、ひょっとすれば以前からこのような機会を狙っていたのかもしれない。

 「それでは盗賊と同じではないですか!」

 「違う。これは義挙だ。この国を本来の形へ戻すための正義だ」

 蘆明は必死に抗弁した。そのことが余計に蘆明の後ろめたさを物語っていた。

 「樹君。君はどうするかね。供に来ないか?君の剣技であれば、十分に公子のお力になれるぞ」

 樹弘は首を横に振った。公子淡がいかなる人物か知らないが、少なくとも蘆明と供に行くことはもはやできなかった。

 樹弘が拒否したことで、蘆明の部下達が樹弘に剣を向けた。仲間にならないのなら殺してしまうしかない。そう言わんばかりである。

 「よせ。貴様らでは樹君には勝てまい。俺すらも勝てる気はしない」

 蘆明は樹弘に警戒を払いながら、馬車に乗った。彼の部下ももう一台の馬車に乗った。

 「その馬車は樹君が貰うといい。書物など我々には無用であるし、売れば多少の金にはなろう」

 「そんな盗賊みたいな真似できるか!」

 「受け取りたまえ。ここまでの賃金であると思えばいい」

 蘆明は馬車を発進させた。老人の亡骸の横を二台の馬車が通り過ぎていく。

 「こんな無常な世の中であってよいものか……」

 樹弘は遠ざかっていく二台の馬車を見送るしかなかった。

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