黄金の瞬~56~
印中員、印進の亡命と海嘯同盟による印中員の擁立は、間を置かずして鑑京でも知られることになった。
「ふん!隠れてひっそりと余生を過ごすのなら見逃してやろうと思ったのに、事もあろうに同盟の走狗になり下がるとは!下衆の中の下衆だな!」
印無須は怒りを顕にした。その嚇怒のほどは朝議に参加していた閣僚を震え上がらせるほどだったが、内心では手を打って喜んでいた。
『馬鹿め!わざわざ自分から名乗り出てくるとは!』
印無須は印中員と印進の行方を捜させていた。なかなか見つからず苛立っていたところ、自分達から所在を明かしてくれたのである。しかも同盟共々、討伐する絶好の状況を作り出してくれたのだ。丞相として印国の実権を握った印無須が喉から手が出るほどに欲した成果を得て、自分を脅かした存在を根絶やしにできる。これほどの喜びはなかった。
「すぐに戦の準備だ!これを機に同盟を覆滅させる!」
印無須の命令に異を唱える閣僚は誰もいなかった。印無須への恐怖心もあるが、彼らからしてみても仇敵である海嘯同盟の手を借りようする印中員達を許す気にはなれなかった。海嘯同盟への大攻勢が閣僚全員の一致をもって決した。征討将軍には大将軍である章堯が任命された。
「征討将軍は大任であるが、章堯ならこなすだろう。本来ならば俺自身が征きたいが、丞相としてはそうもいかんのでな。その代わり後方支援は任せてもらおう」
朝議で海嘯同盟への征討が決まったその晩、印無須は丞相府の私室に章堯を招いた。印無須は章堯と知己を得て以来、度々私室に招いて酒を振舞っていた。印無須としては今の地位があるのは章堯のおかげであり、章堯の印国における人気が即ち印無須の政治基盤でもあった。章堯の存在はそれほどまでに印国で大きくなっていた。
それは章堯も同様であった。今の章堯は印無須きっての忠臣という立場であるからこそ印国で一定の支持を得ていた。印無須と章堯、この二人の蜜月ぶりが今の印国の平穏を実現しており、海嘯同盟への大規模な攻勢も可能にしたと言っても差し支えなかった。
「畏れ入ります。丞相は戦場がお似合いかと思いますが、今回ばかりは臣に譲っていただければと思います」
「言いおるわ」
印無須は章堯に酒を注ぐと、自分の杯も酒を満たした。
「冗談ではなく、丞相には鑑京におられる方がよろしいでしょう。まだ丞相の政治基盤は盤石とは言えませんから……」
「ほう。この印国でまだ俺に楯突く奴がいると言うのか?」
章堯は無言で天井を指さした。
「主上たる父上か……」
国主はまだ印無須の父である印角。実権はほぼないといえ、国主としての影響力はまだ残されていた。
「主上個人というのではなく、主上の存在そのものと言えるかもしれません。主上にその気がなくとも、その大樹に寄って力を得んとする者もでてきましょう」
「ふん……俺が国主となるのはまだ先でもよかったんだが、そうもいかんか。では、同盟との戦が終わり次第ということでいいな」
「よろしいかと思います」
印無須と章堯は杯を交わした。
印無須と酒を酌み交わした後、丞相府を出た章堯は馬車で私邸に戻った。深夜にも関わらず篆高国が待っていると家僕から聞かされた。
「高国が……」
警執の仕事にある篆高国とは最近あまり顔を合わせていなかった。鑑刻宮において仕事上の事務的なやり取りをする程度で、私的に会うことはなかった。
「要件は?」
「将軍の出征を慶賀しに参られたと……」
「そうか……後にしてくれと伝えてくれ。俺は眠いし、高国も眠かろう。明日の仕事に差し障っても悪いからな」
承知しました、と家僕が篆高国が待っているだろう部屋へ消えていった。ここで少し待っていたら篆高国が姿を見せるだろうか。無性に会いたい気分ではあったが、それ以上に睡魔が強く襲って来た。
『俺と高国の仲だ。会うずとも語らずとも理解してくれる』
章堯はそのまま浴室に消えた。手短に入浴し、埃と垢を流した章堯が浴室から出てきた時には篆高国はすでに帰っていた。
「高国はあれからすぐに帰ったのか?」
「左様でございます」
「そうか……」
章堯は去来する寂しさを振り払うように寝室に向かった。




