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七国春秋  作者: 弥生遼
黄金の瞬
796/963

黄金の瞬~54~

 印中員擁立に向けた流れがさらに加速するような事態が発生した。文慈の戦いで敗れた印進が海嘯同盟に亡命してきたのである。

 印進は文慈から離脱すると、一路西を目指した。そして新判には寄らず、いきなり本島に上陸したのである。新判のような出先機関ではなく、本島の執政官に直接談判した方が事が速く進むと判断してのことだった。

 「かつて同盟を不倶戴天の敵と思ってきた。しかし、今となっては敵の敵は味方だ。我に兵を貸して欲しい」

 印進は執政官達を前にして随分と虫のいい話を熱弁した。今までならば一笑に付され、永住を認めるか、印国の取引と材料として幽閉されるかのどちらかであっただろう。しかし、石豪士からすれば実に心強い援軍であった。石豪士は印中員を匿っていることを告げると、印進の言葉はさらに熱を帯びた。

 「それはまさに僥倖というもの!天は我に味方した!」

 徒手空拳で海嘯同盟に亡命してきた印進からすれば、印中員は旗頭になってもらうには十分だった。

 「しかし、残念なのは印中員様自体が乗る気ではないということだ」

 石豪士が言うと、印進が身を乗り出して説得役を買って出た。間を置かず印進は印中員の部屋を訪ねた。印中員が驚いたのは言うまでもない。

 「中員殿、何を躊躇っておられるか!今となっては亡き印疎将軍や印紀丞相の敵を討てるのは我らしかいないのですぞ!」

 印進と印中員は鑑刻宮で顔を見かけた程度の間柄だった。その印進に挨拶もなく迫られた印中員は覿面に嫌な顔をした。

 「印進殿……生きておられたのか?」

 「私は武人として戦場で死ぬつもりだった。しかし、印疎将軍も印栄将軍も我に生きろと言って逃がした。その意味が中員殿には分られるか?」

 分からぬ、と言わんばかりに印中員は首を振った。

 「生き恥を晒して敵を討ってくれ、印一族を守ってくれ、ということだ」

 「しかし、私はその器では……」

 「器でありましょう。中員殿!貴方はこれまで印一族して生きてきた。印一族であったからこそ生活してこれたのではないですか?貴方は学問がお好きなようだが、印一族だったからこそ学問をできたのですぞ。印一族として特権を授かって生きてきたのに、どうして一族が危機になると目を背けるのですか?卑怯というものでしょう!」

 印進の説得はこれまでの誰よりも鋭利だった。印中員は言葉を失った。

 「中員殿、恐れることはないのです。仇敵だった同盟ですが、利用できるものは利用してやればいいのです。奴らも我らを利用しようとしているのですから御相子です。それに私がいると知れば、より多くの者が味方しましょう。印無須と章堯など鎧袖一触です」

 「私は別に勝ち負けを気にしていたわけではない」

 「ならば立ちませい!印一族の男児でありましょう!」

 もはや印中員に逃げ場はなかった。身一つで亡命してきた印中員は、鑑京から逃げてきたようなことはもはやできなかった。


 結局、岳全翔は何も成せぬまま新判に帰ることになった。執政官事務所にいるであろう印中員に会うこともできず、禹遂に後事を頼むだけになってしまった。ちなみにこの時はまだ印進が亡命してきたことを岳全翔達は知らない。

 「後のことは頼みます、総長」

 「できる限りのことはするがな。だが、最悪のことは考えておいてくれ。もし、印国と正面切って事を構えるとなれば、お前さんの出番が来るだろう」

 「それはどうですかね……。ま、守備隊長としてできる限りのことはしますよ」

 岳全翔は禹遂と固い握手をした。

 「それと……芙桃様のことも頼みます。あのご婦人は何事かをかき回します」

 岳全翔は禹遂の手を握りながら、耳元で囁いた。芙鏡は岳全翔と一緒に新判に帰るが、芙桃は本島に残ることになった。当然、執政官達の許可を得ていた。

 「あのご婦人が印中員殿を動かすとは思えんが……用心はしておこう」

 禹遂は桟橋に佇む芙桃を見た。芙桃はにこやかに船上の娘に対して手を振っていた。

 「お嬢さんはいいのかね?母上と一緒に本島に残らなくても……」

 「いえ、今は母の傍にいることが息苦しいのです」

 禹遂が岳全翔のやや後方で桟橋に視線を送っている芙鏡のことを気にかけた。母を頼みます、と芙鏡が言うと、禹遂は顔をにやけさせた。

 「やれやれ、こんな美人なお嬢さんに言われたら、命をかけんといかなくなるな」

 「やめてくださいよ。総長にもやってもらわないといけないことが山積みなんですから」

 銅鑼が叩かれた。出航の時間である。

 「達者でな」

 「総長もお気をつけて」

 二人は再び握手をして別れた。

 船が出航してから岳全翔はしばらく甲板でじっと海を眺めていた。

 「隊長、何か考え事ですか?」

 石硝がすっと傍に寄ってきた。岳全翔はちらっと彼女の顔を見ただけで、視線を海に戻した。

 「軍人とは厄介だな。戦争をしたくなくても政治家がしろと言えばしなければならなくなる。お前らがやってみろ、と言ってみたいな」

 「そんな身もふたもないことを……」

 「そうだね。軍人が政治に口を出してはいけない。それが同盟の鉄則だ」

 岳全翔は大きく欠伸をした。しばらく寝かせてもらうよ、と言って船内に降りていった。新判に着けば眠れぬ日々が続くだろうという予感が岳全翔にはあった。

 

 

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