黄金の瞬~45~
鑑京から遠く離れた山間の小屋に芙桃、芙鏡母子は移り住んでいた。鑑京で血生臭い粛清が行われている頃であったが、この母子はその血風から逃れることができた。
暮らしては決して楽ではない。印無須の奥方から授かった金銭は小屋を購入するのに使い、残ったわずかな金銭でなんとか生活をしていた。
「いずれそのお金も尽きる……」
麓の邑で分けてもらった野菜を籠に乗せ、山道を戻る芙鏡は前途に不安を感じずにはいられなかった。
それまで芙鏡達の収入は戦死した父の遺族年金であり、母子二人が十分生活できるだけの金銭は貰っていた。しかし、その収入は鑑京を出たことによって途絶えてしまった。
「お母様はどう考えていらっしゃるのだろう」
気位の高い母には労働をするという概念がないだろう。芙鏡自身、働いた経験などなく、この先働いて暮らせるかどうか自信がなかった。このままでは母子諸共餓死するしかない。
だが、決して暗い未来にわずかな光明がないわけでもなかった。麓の邑で仕入れた情報によると、太子印無須が文慈において大将軍印疎に勝利したという。もしこのまま印無須が鑑京に帰還できれば、自分達も鑑京に戻って印無須の慈悲に縋ることができるかもしれない。
小屋に帰ってきた芙鏡は、麓で聞いた情報を母に話し、鑑京に戻るべきではないかと提案した。
「何を言うのです、鏡。あらぬ流言飛語に堪えられず鑑京を離れたというのに戻るというのですか。しかも太子に縋るとなれば、私達母子はまた世間から非難されましょう」
芙桃は猛然と反対した。母の言うことに一理あるとは思ったが、芙鏡としては自分を中傷する流言よりも金銭がなくなっていく恐怖の方が勝った。
「しかし、お母様。このままではお金が底をつきます。働くか、飢えるしかありませんが……」
「鏡。古代の聖人穆才は義王の禄を食むことを嫌い山中で飢えたと言います」
「私は聖人ではありません」
「分かっています」
芙桃はそっぽを向いた。母にも妙案はないようだった。
『こうなったら私が働くしかない……』
芙鏡は決意するしかなかった。今度、麓に降りた時、邑の長老に相談することにした。
翌々日。芙鏡は麓に降りた。邑の長老に借りた本を返すついでに仕事について相談することにした。ここの長老は非常に親切で、芙母子のために何かと世話を焼いてくれていた。芙鏡はまだこの長老に自分達の素性は話していないが、長老自身は多少察するところがあるらしく、芙母子に対して実に丁重に接してくれていた。
芙鏡が長老の家を訪ねると、長老はやや困惑の顔を見せた。長老には本日訪ねる旨を伝えていたので、芙鏡の来訪に困惑しているのではなかった。先客がいると言うのだ。
「お客様ですか?では、私はまた後日でも……」
「いや、後日来られましても……」
長老がさらに困惑していると、奥の部屋から青年が顔を覗かせた。年の頃ならば芙鏡と同じであろうか。どこか見覚えのある顔である。芙鏡がおぼろげな記憶を呼び起こそうとしていると、青年の方が口を開いた。
「まさか芙鏡様じゃないですか?」
青年にそう言われて、芙鏡の記憶がよみがえった。
「印中員様……。どうしてこちらに……」
まさしく青年は、鑑刻宮での宴席で以前に見かけた印中員であった。
「それはこちらの科白ですが……」
印中員は自らに起こった事態について話し始めた。それが終わると芙鏡も母と鑑京から逃げてきたことを伝えた。
「そのようなことが。貴人であろうとは思っていましたが、まさかあの芙鏡様だったとは」
「ごめんなさい、長老様。偽名を使っておりまして」
「いやいや。ご事情もおありでしょう。それにここはそういう場所でもあるのですよ」
「どういうことなのですか?」
「ここは鑑京を追われた貴人が身を潜める場所として選ばれることが多いのですよ。鑑京からほどよく離れ、他者があまり寄り付かない。まぁ、隠れ里というわけですな」
芙鏡達にこの場所を紹介してくれた商人はそのことを知っていたのだろう。確かに身を隠すには程よい場所だった。
「私はここに長居するつもりはありませんけどね」
一週間ほどお世話になるだけです、と印中員は言った。
「そうなのですか?」
「ええ。私は同盟経由で、泉国に亡命するつもりなのです」
芙鏡達と印中員では立場と事情が異なっていた。印中員がいくらそのつもりがなくても、印無須にとっては敵でしかない。生きていると知られればどうなるか分からない。印国国内に身を潜めるのは危険だった。
「それは御多難なことでございますね」
「これも印一族に生まれた者の宿命だと思っています。鑑京で重苦しい生活を送るよりはましだと思っております。ああ、よければお母様に一言挨拶をしたいのですが……」
構いません、と言ったことで芙鏡の運命が大きく変わることになってしまった。




