黄金の瞬~41~
文慈での勝報ほど篆高国を喜ばせたことはなかった。章堯は鑑京に向かって進軍してくるだろう。そうなれば鑑京が戦火に巻き込まれる可能性もある。あるいはその前に章堯の姉ということで印紀が章銀花を人質に取ることも考えられる。いよいよ自分が動く時が来たか、と思っていると、拠点としている宿屋に突如として魏房が訪ねてきた。
「魏殿……。貴方は章堯様の傍におられるのではないのですか?」
「戦となれば私は不要です。隗良もおりますし、何よりも章将軍に勝る武人などこの印国にはおりません」
当然章将軍の許可を得ておりますよ、と魏房は言った。篆高国はひとまず魏房を招き入れた。
「どうして戻って来られたのです?」
「宮城での政治的工作です。もはや章将軍の勝利は確実ですが、その勝利をより確実なものにするためです。そのためにも篆殿にも一肌脱いでいただきます?」
「私に?」
「はい。速やかに銀花姫にお会いになってください。そして銀花姫の口から主上に申し上げて欲しいのです。印紀を逮捕せよと」
篆高国は青ざめていくのを感じた。眼前の男は章銀花すらも謀略のために使うのか。
「銀花様を巻き込むのは流石に……」
「章将軍の許可は得ております」
魏房は即座に言い返した。
「しかし……」
「篆殿はご存じないことですが、主上はすでに章将軍にも勅諚を出しております。要するに主上は二枚舌の状態にあります」
魏房は声を潜めた。
「そのことを印紀は当然知りません。もし知ればどうなるか?きっと脇目もふらず強硬な手段に打って出ることでしょう。今上を排し、中員を国主とすることでしょう。それだけではなく、銀花姫を人質にことも考えられます」
それは篆高国が危惧していたことと同じだった。
「もとより巻き込まれているというわけか……」
「銀花姫を確実にお救いするにはその方法しかありませんぞ」
魏房の言うとおりにしなければならないのか。篆高国にはそれが不満であった。
篆高国自身、不服な任務であっても、章堯が認めているならば動かなければならなかった。篆高国は再び宝石商に身をやつし、後宮に入り込んで章銀花に会った。篆高国は魏房から言われたことをそのまま章銀花に伝えた。章銀花は表情一つ変えず、最後まで聞いてくれた。
「高国はその話にあまり乗る気ではないのですね」
聞き終えた章銀花は篆高国の心情を正確に読み取っていた。篆高国は躊躇いながらも認めた。
「はい。銀花様を巻き込みたくないのですが……」
あなたは優しいですね、と章銀花は優しくほほ笑んだ。
「ですが、そのような優しさは無用です。私は堯のためになるならば何でもするつもりです。私にとってあの子は生き甲斐なのですから」
章銀花は遠い目をした。彼女が見ているのは目の前の篆高国ではなく、はるか遠くにいる弟なのだろう。
「私はもはや籠の中で飼われている鳥でしかないの。だから外で大きく羽ばたいている堯には私の分も羽ばたいて欲しい」
貴方と一緒にね、と章銀花は篆高国の幸せも忘れてはいなかった。
章銀花はその晩、印紀を逮捕すべきだ旨をそれとなしに閨を訪れた印角に吹き込んだ。印角としては章銀花に言われるまでもなく、印紀に見切りをつけていた。問題は誰に印紀を逮捕されるかであった。これについては印角にはすでにあてがあった。
『印郷に命じよう』
印郷は鑑京に待機している。しかし、印疎が印無須に敗れた以上、いつ動員がかかるか分からない。その前に印郷を召して印紀を逮捕を命じる必要があった。
「しかし、印郷は印紀の一味ではないですか?」
印角から様々な相談にも乗っている祐筆が懸念を呈した。これに対して印角は、
「あやつも印一族の人間だ。仲間意識と主筋の命令。どちらを優先するか。問うまでもなかろう」
それにあやつは古老だからな、と印角は絶対的な自信を覗かせていた。印角は早速に印郷を召すことにした。
印郷には印角から召された理由について大よそ察しがついていた。
『主上は印紀と印疎を切るつもりだ』
無理もなかろう、と印郷は思った。文慈での敗戦は印紀が思っているより鑑刻宮に動揺を与えていた。いくら印紀が強がろうが、印無須軍には諸勢力が集まり、大軍として南下してくるだろう。
「ここまでだ、ということが印紀に分からぬのであれば、私が引導を渡さねばなるまいな」
印郷にも印紀達への仲間意識はある。しかし、その仲間意識に引きずられて没落する未来を良しとする若さが印郷にはなかった。
鑑刻宮に到着した印郷は印角のもとへ行く前に印紀と遭遇した。この時の印紀は息子である印中員が失踪したと知ったばかりの時であり、宮城に召された印郷にそれほど気を止めなかった。
「主上がご不安ということなので、武人として色々とお話をしに参りました」
印郷がそう言えば、そうですか、と印紀は素っ気なく答えるだけだった。その直後、印郷は印紀を捕縛する勅命を印角から受けるのであった。




