黄金の瞬~37~
鑑京を発した討伐軍は、途中で攻撃を受けることなく文慈を囲んだ。
「無理押しする必要はない。どうせ奴らに救援はないのだ。十重二十重に包囲しておれば状況に絶望して寝返る者もでてくるだろう」
印疎としては敵の内訌を誘えると思っていた。どう考えても印無須が圧倒的に不利であり、しかも傍若無人の性格である。家臣や民衆達が印無須に見切りをつけるのも時間の問題と考えるのも自然のことだった。
しかし、印疎は印無須を侮っていたといい。印無須は文慈ではすこぶる人気が高かった。女色家であり、気に入らぬ家臣を殺害するような狂暴性を持っているが、民衆から搾取して自己の富ませるような真似をしなかった。寧ろ他の公族が有する邑の中では恐ろしく租税が安かった。加えて印無須が稀に文慈を訪れた時などは、街の安酒場に出入りして民衆と一緒に飲み明かすこともあり、文慈の人々は鑑京での印無須の世評など信じていなかった。
「丞相は自分の息子を国主にしたいがために太子を鑑京から追ったのだ。今こそ太子をお助けする時だ」
多くの民衆と家臣達は団結し、いかなる困難があろうとも印無須を裏切るまいと覚悟を固めていた。文慈の中がそのようになっているなど、印疎達は知る由もなかった。
「俺は良い邑民を持ったものだ。その意気に応えねばなるまい」
ただじっと籠城し、章堯の救援を待つのは印無須の性に合わなかった。
「左様でございます。ここは我らの意気を天下に示す必要があります」
華士玄も印無須と同じことを考えていた。単に籠城しているだけでは将兵の士気も鈍る。ここは夜襲でもして印疎の大軍に泡を吹かせてやるべきだろう。
「流石は俺の腹心よ。よし、俺自身が先陣に立って夜襲を仕掛けよう」
印無須自身が出陣するのは危険ではあった。しかし、華士玄は制止しなかった。制止したところで印無須は言うことを聞かないであろうし、印無須が先頭に立ってこそ夜襲が成功し、成功した時の効果が大きかった。
印疎は決して印無須のことを侮っていたわけではなく、油断をしていたわけでもない。ただ、数で圧倒的に劣勢である印無須が出撃してくるはずがないと思っていた。とはいえ、夜襲の可能性は考慮していたが、全軍への警戒を徹底していなかった。
「ふん、数で劣る敵に何ができようか」
特に三人の将軍の中で最も年若な印進などは完全に無警戒であった。奇しくも印無須は印進軍を夜襲の標的とした。
「印進は俺よりも年下だという。そのくせ俺に逆らってくるとは生意気の極みだ。痛い目に遭わせてやる」
印無須の子供のような発想がこの夜襲を成功させた。見張りの兵士さえも夜に立たせていなかった印進軍は、印無須自らが指揮する夜襲部隊に襲われた。印進が眠る天幕の近くまで印無須軍は食い込み、もし印無須が印進の天幕の在所を知り得ていたら印進の命はなかったかもしれぬというほどの猛攻であった。
「進の部隊が夜襲を受けている!助けるぞ!」
印進軍が夜襲を受けているのを知った印栄はすぐさま救援を出した。その動きを察知した印無須は深追いせずに撤収した。
「ふん。印進に一泡吹かせてやった。それで満足としてやるか」
印無須は満足して引き上げていった。これ対して印進としては大失態であったが、印疎は責任を追及しなかった。
「損害は局地的で限定的だ。大勢には影響あるまい」
印疎は鷹揚に構えて問題としなかった。大勢に影響がないのは事実であるし、印無須ができるのはその程度であろうという感想しかなかった。この時すでに章堯が軍を率いて南下し始めていた。
中将となった章堯は五千名の将兵を指揮することができる。しかし、この時は自分の子飼いとも言うべき直属の戦力だけを連れており、その数は三千名にも満たなかった。それでも章堯には十分だった。
章堯軍はすでに南下している。配下の将兵には演習の一環と布告している。どこかで全軍を停止し、印無須を助けるために印疎達を討つということを宣言しなければならなかった。
実は章堯の手元には印角からの勅許が届いていた。太子を助け、印疎達を討てというものだった。
「どう思う?」
章堯は魏房に問うた。
「おそらくは印疎達にも勅許を下していることでしょう」
「ふん。どちらが勝つか天秤にかけ、勝ち馬に乗るつもりか。あこぎな奴め」
腹立たしくはあったが、章堯達には大きな武器だった。
「将軍。勅許の件はまだ内密にお願いいたします」
「ほう。どういうわけか?」
「勅許によって印疎を討ったとなれば、将軍が主命に従ったまでのことです。そうではなく、将軍が自己の意思で義のために印無須に味方したとした方が聞こえがようございます」
それに先のこともございますれば、と魏房は言った。
「確かにその通りだ。明日の早朝、全将を集めよ。そこでこの作戦の目的を話す」
「承知しました」




