黄金の瞬~33~
芙母子と同じように、印紀の謀反と印無須の逐電で思わぬ境遇に立たされた人物がいた。印紀の息子、印中員である。
印中員は印無須のことを人物としてあまりよく思ってはいなかったものの、それに取って代わるなどとは思っていなかった。ましてや武力をもって太子の座を奪うなど印中員からすれば許されざることだった。
印紀と印疎が軍を発し、印無須の屋敷を包囲したと知ると、印中員は飛び起きて父の跡を追った。印中員が到着した時、すでに印無須の屋敷は開城されており、父である印紀は報告のために鑑刻宮に向かっていて不在だった。
「大将軍……父はどこです?」
印中員は軍中に印疎を見つけた。見つけられた印疎はばつが悪そうに顔をそむけた。
「丞相は主上にご報告に向かわれた」
「一体どういうことで、このようなことを……」
「太子が謀反を企てられて……」
「そのような言葉、今の印国でどれだけの人が信じるというのです?」
「私にはそれ以上の子とは言えん。後は丞相にお聞きするのだな」
印疎は逃げる様にして立ち去っていった。印中員もこれ以上印疎と話していても埒が明かないと思って自らも鑑刻宮に向かった。
深夜にも関わらず鑑刻宮の南門は開かれていた。印中員が馬車から顔を出すと衛士はすぐに通してくれた。印中員としては父が謁見している最中でも割って入って事を平穏に収めるよう進言するつもりだった。
印中員が馬車を降りると鑑刻宮から印紀が出てきた。謁見は終わったらしい。印角がどういう判断を下したか分からぬが、こうして出てきたということは印角は印紀を拘束したなかったということ。つまり、印紀の動きをある程度認めたということになるだろう。
「父上!」
「中員、宮城ぞ。騒ぐでない」
私の馬車に乗れ、と印紀は言った。印中員が馬車に乗り込むと印紀が乗ってきた。後は誰も乗せずに馬車を走らせた。
「どうしてこのような真似をなさったのです?太子がご謀反などと誰も信じません。父上こそが謀反を起こしたと言われかねませんぞ」
「先に動かねばこっちがやられた。それだけのことだ」
「父上……」
「お前にとっては不本意かもしれんが、もう動き出したことだ。事を起こした以上、やり切らねばならん。お前にも覚悟をしてもらわねばならんぞ」
「武力をもって政権を奪うことが不本意以外の何ものがありましょうや」
「中員、お前は古代の聖人か?武を用いない礼や孝で成り立つ政治など理想だ。理想だけではやがて空論となることを知り、現実の政治家となれ。今は非情をもって無須を追わねば印国が終わる」
印紀は、今回の謀反が私利ではなく、社稷のために仕方のないことだと言いたいのだろう。それが息子には自己弁護にしか聞こえなかった。
「……これからどうなさるのです?」
「まずは無須を捜さなければならん。それと主上にお前が太子になることを認めていただく」
異論は言わさない力強さが印紀の語気に込められていた。
印中員の苦悩は深まっていった。印中員は国主の座など興味なく、印無須を差し置いてまで太子になることなどさらさら考えていなかった。ましてや武力をもってその地位を奪うなどもっての外であった。
実際に武力を用いたのは父である。この後、父は自分を太子とし、何事もなければ国主となるだろう。そうなれば印中員は武力をもって国主となった男、となる。印中員としてはそれが堪えられなかった。
『私は穢されてしまった……』
印紀は自分のことを古代の聖人か、と揶揄して非難した。印中員からすれば、
『古代の聖人で何が悪い!』
と叫びたかった。
古代の聖人は武をもって天下を治めず、徳と礼をもって天下を治めたという。その治世には乱が起こらず、盗賊もでなかったとされている。まさに理想の政治だった。
「印淑曰く、飢えたるものには食を与えよ。病のものには薬を与えよ。礼を知らぬものには礼を教えよ。為政者は徳を持ち、恐怖を与えるなかれ。それで天下は治まる」
印国において聖人とされる印淑は若くして印公となると、徳と礼をもって政治に挑み、在位中は一度の騒乱もなく、印国はよく治まった。四十年以上の在位の後、次期国主の座を自分の息子ではなく、従兄で重臣の一人だった印荘に譲った。印荘もまた有徳の人として知られていた。
「もし、私に国主の座が譲られるとしたら、それは私に徳があり、衆人から徳を認められた時だと思っていたのに……」
その機会は永遠に失われしまった。その苦悩が極まった印中員の思考が最終的には弾けてしまった。
「もう私はここにはいられない」
印国を出よう。古代の聖人は悪政が行われるとそのことを儚んで国を出たという。印中員はそれに倣おうと思った。




