黄金の瞬~32~
印無須の逐電は印紀にとっては痛恨事であった。印無須の身柄を押さえてこそ印紀にとっての正義が成り立つ。逃げらてしまっては単に武装蜂起しただけになる。
印紀と印疎は軍勢を率いて印無須の屋敷を包囲した。しかし、肝心の印無須はすでにおらず、夫人や家臣達が取り残されているだけだった。
「なんという失態!これが後々になって仇にならなければいいのだがな!」
印紀は印疎に悪態をつきながらも、兎に角参内しなければならなかった。事の次第を印角に説明しなければならない。
印角は深夜にも関わらず起きて印紀を迎えた。普段と変わらぬ様子であることが印紀を安心させた。
「謹んで申し上げます。太子が主上に対して謀反の動きを見せましたので捕らえようとしましたが、寸でのところで逃げられてしまいました……」
印角はどう言うだろうか。少なくとも印紀に嚇怒することはないだろう。それだけ印角の様子は穏やかだった。
「あれが謀反か。荒くれ者ではあるが、そんな気骨があるとは思えん」
印角が吐き出した言葉は謀反に対して否定的だった。印紀はややぞくりとした。
『最悪の場合、主上すらも拘束するしかない……』
そのうえで自分の息子を太子にさせ、最終的に国主にさせる。その非情さもやむを得ないと思い始めていた。
「ですが、太子が逐電したのが何よりもの証拠です。もし無実ならば身の潔白を申し出るはずです」
「よいよい。事、ここまで至っては余計な言説は自分の身を縛ることになるぞ。余もまだ自分の身がかわいい。余計なことを言って幽閉でもされたら敵わん。丞相の好きにするがいい」
印角の言葉は印紀への痛烈な批判であった。印紀としてはこれ以上見苦しい自己弁護をしたくなかった。
「では、新たなる太子のことは後のことと致しまして、これよりは印無須の逮捕に全力を尽くしました」
印紀は早く印角のもとから立ち去りたかった。印角から印無須謀反の言質を取ることに成功したが、敗北感しかなかった。
印無須が逐電したことにより、芙母子は屋敷に取り残されることになった。芙母子だけではく、印無須はわずかな近習だけを連れて鑑京を出たので、妻や家宰すら知らされていなかった。芙母子に印無須の逐電を報せたのは、他ならぬ彼の妻だった。この妻は名は伝わっていないが、龍国公族の娘といわれている。
「太子が謀反の疑いをかけられ遁走しました。まったく、あの人は何を考えていることやら」
芙鏡達の前に初めて姿を見せた印無須の妻は呆れ顔だった。夫の成したことに怒ることも悲しむこともなく、慣れてしまっているのだろう。
「ごめんなさいね。あの人の道楽で勝手につれてこられて勝手に置き去りにされて。これ、少ないかもしれませんが、迷惑料です。丞相も無理やり連れてこられた貴女達を尋問はしないでしょう」
妻は金子袋を芙桃に渡した。ずしりと重い。少しどころではなかった。
「あの、奥方様は……」
「私は質問を受けるでしょうね。すでにこの屋敷は大将軍の兵に囲まれていますから、逃げも隠れもできませんからね。ま、そんな手荒な真似はしないでしょう」
この妻はこの後、屋敷を無血開城させるための指揮を取らねばならなかった。彼女は見事それをやりきった後、しばらく拘束された。その立ち振る舞いと言動に感心した印紀はすぐに彼女を解放、故国へと帰したといわれている。
さて、芙母子である。彼女達は印無須の妻の言うとおり、形式ばかりの質問を浴びただけで帰宅が許された。しかし、思わぬ噂が彼女達を苦しめることになった。
『美貌をもって太子に媚びを売りながらも、太子の謀反が発覚すると見捨てるとは……。貞女の風上の置けない』
無論これは虚偽である。芙母子の美貌と人気に嫉妬した一部の公族貴族の婦女子による流言でしかなかった。多くの人々がそうであると知りながらも、この手の醜聞を好む層はいる。彼らは流言に尾鰭を増やし、芙母子をとんでもない悪女へと変貌させていった。
「お母様、もう耐えられません」
自宅に帰って二週間後には家に石を投げられるまでの事態となり、芙鏡は眠ることもままならないようになった。
「単なる流言飛語ならまだ耐えることができましょう。しかし、その流言を理由にして保護してあげようと近寄ってくる男のなんて多きこと。鑑京の男達はまこと醜いものばかりです」
芙桃も娘を守る立場として神経を擦り減らしていた。このままでは母子諸共、精神を病んでしまいそうだった。
「鏡。鑑京を出て、遠くに行って静かに暮らしましょう。二人のわび暮らしになりますけど、騒がしいよりはよいでしょう?」
芙桃としては娘をしかるべき男性の下に嫁がせるつもりだったが、もはやその気が完全に失せてしまった。母の提案に芙鏡としても異存はなかった。このまま二人は印国のどこかの一隅で女二人、静かな余生を過ごすはずだった。しかし、印国の動乱は二人に安寧な生活をまだ許すことはなかった。




