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七国春秋  作者: 弥生遼
黄金の瞬
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黄金の瞬~28~

 ここで一人の女性が登場する。

 名は芙鏡といった。まだ二十歳にならぬ女性であるが、すでにその美貌は印国中に知られていた。芙家は中級貴族で、母である芙桃もまた美女として有名だったが、夫が海嘯同盟との戦争で戦死し寡婦となっていた。

 一体だれが芙母子を得るのか?それが印国社交界の注目の的となっていた。一時は印角が後宮に収めるのではないか、という噂もあった。しかし、印角が芙母子に手を伸ばすことはなかった。印角の好みは肉感溢れる豊満な女性であり、芙母子はその好みからはやや外れていた。

 それならば太子か、はたまた丞相家か。口さがない人々が集う社交界でその話がでない時はなかった。当の芙桃は、

 「私にとって夫は亡くなった夫ただ一人です。他の人に嫁ぐつもりはありませんし、娘は身分ある方ではなくても、精神的に高潔な方に嫁がせるつもりです」

 と公言していた。明かに女色家である印無須を意識しての発言であった。印無須もその発言のことを知ってはいた。

 「精神的に高潔か。まさに俺に相応しいな」

 自信家の印無須はそう思っていた。いずれ自分が声をかければ、芙母子は頭を下げて自分の後宮に収まるだろうと信じ、他の女と遊ぶことに熱中していた。

 しかし、思わぬことが起こった。印角が芙鏡を息子である印中員の妻とすべく動いているという噂があちらこちらで聞かれるようになったのである。

 「おのれ!俺の女を横取りにするのか!」

 まだ芙鏡が自分のものにもなっていないにも関わらず、印無須は激怒した。あろうことかこの激情家は自らの足で印中員にもとに怒鳴り込んだ。

 「貴様!家臣の分際でありながら俺の女を盗るつもりか!」

 鑑刻宮で印中員を見つけた印無須は胸ぐらを掴んで凄んだ。印中員は突然のことにも動じることなく涼しい顔で応じた。

 「太子、何かお考え違いをされていませんか?」

 「ふざけるな!芙鏡のことだ!」

 「ああ……」

 印中員は印無須よりも二十歳近く年下である。それにも関わらずどちらが大人かまるで分からぬ態度であった。

 「私が芙鏡殿を娶るという話ですか?宮城の閑人達が口にする根も葉もない噂話ですよ。私は芙鏡殿を娶ろうとしておりませんし、父もそのように考えておりません。太子、ご安心ください」

 私は仕事がございますので、と印中員は印無須の手を静かに払った。本当に噂話であったか、と印無須が安堵したのは一瞬だった。安堵が過ぎ去ると印中員の落ち着いた態度が気に入らなくなった。

 「貴様!俺のなめてんのか!」

 印無須は印中員を太子に推す声があることも承知していた。そのような声もあって印中員への憎悪が爆発したと言ってよかった。

 「奸賊め!」

 印無須は腰につっていた剣を抜いて、印中員に斬りかかった。鑑刻宮において帯刀できるのは印公と太子、そして印公に帯刀を許可された将軍のみである。印中員は丸腰であった。

 それでも凶事を察した印中員は印無須の剣劇を避けた。しかし、切っ先が腕をかすり、血が流れた。

 「太子!落ち着かれよ!宮城ですぞ!」

 近習達が飛び掛かり印無須を制止した。

 「離せ!無礼者!」

 「おやめください!宮城で血が流れれば、太子とて無事では済まされません!」

 近習達は印無須から剣を奪い、羽交い絞めにした。一方で印中員はかけつてきた衛兵に守られながら近くにあった一室へと引き下がっていった。


 この刃傷事件が問題にならぬはずがなかった。加害者が太子で被害者が丞相の息子で、しかも二人は次期国主の座を巡り敵対関係にある。特に被害者である印中員の父印紀がどのような態度を取るか。鑑刻宮の耳目は丞相に集まった。

 「父上。太子はあらぬ噂に惑わされて感情が高ぶっただけです。事を荒立てない方がよいかと思います」

 事件があったその晩、印中員は父に申し出た。印中員としては自分と太子の関係を知っているが故に父に自制して欲しかった。

 「そうもいかん。鑑刻宮の公衆の面前で刃傷があったのだ。しかも太子が一方的に斬りつけた。もし太子でなければ死罪なのだぞ」

 難しい問題だ、と印紀は思った。印紀としても印角が太子を印無須と定めている現状では事を荒立てたくない。だが、同時に印無須の無道を印角に主張する好機でもあった。

 「ですが、父上……」

 「まぁ待て。事を荒立てたくないというお前の気持ちも分る。後は父に任せろ」

 そう言いながら印紀は妙案が浮かばずにいた。

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