黄金の瞬~5~
新判を離れた篆堯軍が主戦場に到着した頃、印疎軍と虎壕軍は拮抗した戦闘を繰り広げていた。篆堯からすれば絶好の時機に到着したことになった。
「敵はこちらに気付いているはずだ。間髪容れずに敵軍の側面に攻撃をしかける」
将兵に疲労はあったが、赫奕たる戦果が約束された戦場に立たされて興奮しないわけがなかった。
「目の前に手柄がぶら下がっているのに座視するは武人の恥と心得よ。志ある兵は我に続け!」
篆堯は自らが乗る兵車を先頭に立たせた。篆堯という男は常に戦場に前線にあり、先陣を切った。将兵の士気を高めるということもあったが、そうしなければならぬ性分であったと言っていい。高級指揮官となって後方にいることを武人としての恥と感じていた。そのような感性をもった武人はこれまでの印国にはおらず、将兵達を惹き付ける要因ともなっていた。
「将軍が先陣を切って突撃したぞ!」
「篆将軍を死なすわけにはいかん!」
「遅れるは恥ぞ!」
従う将兵達は口々に叫び、篆堯の兵車に続いた。ある者は兵車を走らせ、ある者は歩みを進めた。それはまるで獲物に襲い掛かる獅子のようであった。
虎壕も戦場においては一角の人物である。篆堯軍の出現を知ると、すぐさま戦場から離脱することを模索した。
「岳全翔め。余計なことをいうから我が軍の兵数が減ったではないか」
虎壕は舌打ち交じりで吐き捨てた。まさか岳全翔の献言によって新判が救われたとは知らぬ虎壕はともかくも撤退をせねばならなかった。
「側面の敵は篆堯だ。これは強いぞ。そちらの方を強化して、じりじりと後退するぞ」
虎壕は印疎軍と戦っていた前線から精強な部隊を引き抜き、篆堯軍にあてた。この行動に印疎が気が付き、一気に攻勢をかけていたら虎壕軍は総崩れになっていただろう。しかし、印疎は篆堯軍が出現しても鈍感であった。
「ふん。青二才が今更現れたわ。こうなれば青二才に任せて我らはゆるりと戦おう」
指揮官として正気とも思えぬことを言った印疎は逆に攻勢を緩めた。これが虎壕軍にとって僥倖となった。篆堯軍の猛攻をなんとか凌いだ虎壕軍は犠牲を払いながらも撤退することができた。
「大魚を逃がした、というところでしょうか?」
篆高国の呟きに篆堯は鼻で笑った。
「新判を取ることが目的だったんだ。それに比べればあの軍勢など小魚の群れだ。それにここで勝ったとしても印疎に利するだけだ。今回はこれでよしとしておこう」
それに、と篆堯は今や遠く離れた新判での戦場を思い出した。あの奇襲を仕掛けてきた新判の指揮官。なかなかの手際であった。
『どういう人間知らんが、ああいうできる男と戦場で相まみえたいものだ』
ここ最近の篆堯は戦場での物足りなさを感じていた。それは敵に限らず味方においても同様であり、自分と同等かそれ以上の才覚を持っている武人などおらぬと思っていた。しかし、あの新判の指揮官には自分を震わすようなにおいをどこかに感じた。
ともあれ篆堯は印疎軍の一部として国都鑑京に帰還した。すでに戦勝したとの報告が届けられており、鑑京は祝賀に湧いていた。
「あれで大勝らしい。せいぜい引き分けがいいところだ。いや、本来の目的を成し得なかったという時点で我が軍は前に等しい」
印疎を始めとした将兵が浮かれ、大本営発表の戦勝に庶民が色めき立つ中、篆堯は冷徹であった。しかし兵車から沿道に詰め掛けた民衆には満面の笑みで愛想を振りまいていた。
「印疎はすでに大将軍です。この勝利を戦果としても昇進はありえませんし、加増するにも領土を得たわけではありません。印疎はどういうつもりで大勝と喧伝するのでしょう」
「印疎からすれば、我が身を守るための勝利だ。要するに大将軍という地位を守るためだけに戦争をし、勝利したと騒いでいるだけだ。それに付き合わされる海嘯同盟も憐れだな」
篆堯は笑った。その笑いは傍からみれば勝利に喜ぶ笑顔と映っただろう。もし篆堯の笑顔に魅了された民衆がその兵車で行われている会話を聞けば驚倒したであろう。
「まぁ、それでもそのおこぼれを貰えるならばよしとすべきかもしれませんね」
「おこぼれな。貰えればいいが……」
篆堯もすでに右中将である。それ以上の階級となれば、左中将、右大将、左大将、そして大将軍しかない。それらの地位は印家一族によって占められており、篆堯が付け入る隙がなさそうであった。
『まぁ、今はいい。いずれは将軍職はおろか国主の座を得るのだからな』
篆堯の野心を知るのは隣にいる従兄弟しかいない。まだ若い篆堯にはそれで十分であった。




