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七国春秋  作者: 弥生遼
黄昏の泉
74/958

黄昏の泉~74~

 無数の松明が夜の泉春を駆け巡ったのは、まさに景政の乱以来であった。その時は泉春宮を攻める景晋軍と、景晋戦死後に景政宅を襲撃した湯瑛軍と二度に渡ったが、今回は柳興宅に向かう湯瑛軍のみであった。柳興からすれば完全に奇襲を食らった形となり、柳興自身も、門兵が異変を知らせるまで愛妾と閨で睦みあっていた。

 『湯瑛め!』

 閨から飛び出した柳興は地団駄を踏んだ。この時点で柳興は、湯瑛が攻めてきたのは相史博の面前で痛罵されたことへの逆恨みであると思っていた。

 「逃げるぞ!馬車を出せ!」

 戦うことよりも生命の保全を考えたのは、柳興が根からの武人ではなかったからであろう。彼は戦って死ぬという武人としての矜持よりも、生命の保全を選んだ。

 そして柳興がお粗末であったのは、彼にとって最大の至宝であった娘ー柳祝を置き去りにしたことであった。自分一人が逃げることしか頭になく、逆にそのことが柳祝の命を助けることになった。

 柳興宅を攻めようとした湯瑛は、邸宅から数台の馬車が飛び出したという知らせを聞いて、部隊を一時停止させた。

 「卑怯者めは早々に逃げ出しと見える。馬車を追え!屋敷は後でいい!」

 湯瑛に多少なりとも思慮があれば、部隊を割いて一部を柳興邸にやって柳祝の身柄を抑えただろうが、戦場にでると直情的になり、相史博からの私的な密命などすっかりと忘れていた。

 湯瑛の部隊が追ってきていると知った柳興は顔を蒼白とさせた。猪武者とあざ笑っていても、猪突してくる湯瑛軍は恐ろしく生きた心地がしなかった。

 「何をしている!湯瑛を止めろ!」

 柳興は身を乗り出し部下を叱責した。すでに湯瑛が指揮する騎馬隊が肉眼で視認できる距離にあった。

 柳興にとっての不幸は相手が湯瑛であるということであった。武人として名の高い彼は単に将帥としての勇猛さだけではなく、あらゆる武芸にも優れていた。湯瑛は騎射の達人でもあり、この時も手綱から手を離すと背中の弓を取り、器用な動作で矢をつがえた。

 「この矢よ、邪悪なるものを討つ破魔となれ!」

 そう念じて矢を放つと、その矢は柳興が乗る馬車の馬に刺さり、馬は転倒した。馬車も横倒しとなった。

 「だ、誰か!」

 倒れた馬車から這い出た柳興は別の馬車に移ろうとした。しかし、彼の部下達は主人を助けようともせず、我先にと駆け抜けていった。

 「卑怯者は人望もないらしいな。所詮は武人にはなれん男だ」

 哀れな柳興の姿を見届けた湯瑛は、部下に柳興を捕らえるように命じた。だが、柳興が泣き叫ぶように激しく抵抗したため、止むを得ずその場で首を刎ねた。

 この間、柳祝は使用人達の助けを借り、泉春を脱出していた。父である柳興が囮になったようなものだが、彼女の数奇な運命の始まりでもあった。

 柳興の首を持って凱旋した湯瑛は、今更のように柳興宅に赴き柳祝の姿を探した。しかし、柳祝はおろか人一人もいなかった。そのことをさして気にしていない湯瑛はありのままを相史博に報告した。

 「……そうか」

 相史博は苦虫を噛み潰したような顔をして不快感を顕にしたが、柳祝の件はあまりにも私的なことなので、それ以上は何も言わなかった。

 

 泉春で小規模な戦闘が行われその頃、貴輝では樹弘がついに決断を下した。

 「泉春を攻略し、相家を除く」

 まだ柳興が湯瑛によって処断された報せを受けていなかったので、柳興の投降を考慮したうえでの決断ではあった。しかし、柳興のことは甲朱関の戦略の中では小さい。仮に柳興の投降がなかったとしても、泉春から抜け出す将兵、官僚、市民が増えていることから機は熟したと判断したのである。

 樹弘は家臣達の前に立ち、出撃する陣容を伝えた。

 第一軍は文可達を将軍にし、これが先陣を切ることになる。第二軍は蘆明が指揮し、樹弘はここに本営を置くことになる。第三軍は田員が将軍となり殿軍となる。これに加え、相宗如が遊軍として少数ではあるが、参戦することとなった。

 樹弘の本営には軍師として甲朱関、親衛隊長として景黄鈴、同じく親衛隊として景弱が樹弘の身を守ることになる。景蒼葉は秘書官として帯同することになり、甲元亀と田碧は貴輝に残留。そして景朱麗は、樹弘達が出撃してから後、輜重隊を率いて樹弘達を追いかけることになった。

 出撃の前夜、政務を手早く片付けた樹弘は、貴輝に残留する二人に後事を託した。

 「色々と大変な役目かもしれませんが、よろしくお願いします。できるだけ早く終わらせたいと思っていますので」

 「左様ですな。我らも早々に主上と泉春で再会したいものです」

 と甲元亀が言うと、田碧は、

 「ぜひ泉春で主上に茶を献じたいと思います」

 と言って、二人は退出した。さてそろそろ休もうかと思っていると、景朱麗が尋ねてきた。

 「申し訳ありません、主上。お休みの前でしたか……」

 「いえ、大丈夫ですよ。どうしました?」

 「用があるわけではないのですが……。いよいよかと思いまして……」

 平静を装っていても景朱麗は興奮しているのだろうか。樹弘もほどほどの緊張感を持っていた。

 「早いものですね。朱麗さんと出会って、まさかこんな状況になっているなんて、あの時の僕に教えたら何て言うでしょうね」

 「それは私も同様です。まさか元亀様の所にいた下働きの少年が我らが主上で、その主上と共に泉国を取り戻そうとしている。冷静に思うと小説のようであり、事実なんですね」

 「そう言えば、朱麗さんに木刀で思い切り殴られていましたね」

 「しゅ、主上!それは……」

 真剣に慌てふためく景朱麗を見て、樹弘はくすっと笑った。

 「そういう朱麗さんだからこそ今まで来れたんですよ。ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」

 「こちらこそ、主上」

 二人は自然と手を出し合い、硬く握手した。 

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