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七国春秋  作者: 弥生遼
春陽の風
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春陽の風~6~

 その昔、飛蝶という邑に何か特別な物や事があったのかどうか。今となってはそのようなことを知る手掛かりは残されていなかった。どこにでもある普通の邑であった。

 ただ他の邑と違うのは、ここが翼国からの難民政策の拠点があるというだった。泉春から派遣された代官がおり、少数ではあるが軍も駐留していた。

 邑の外では代官である岱毅が迎えに出てきた。三人の公子が訪ねてきたのだから本来であるならば盛大に迎えるべきなのだが、樹元秀の発案によってそのようなことは無用であると事前に伝えておいた。

 「今回の訪問は公務というにはほど遠いものです。過剰な迎え、接待は無用で願います」

 樹元秀は非常に無欲で、父である樹弘の影響を受けていた。美食、美酒、美服を遠ざけ、美女を侍らすようなことも生涯の中で一度もなかった。唯一の趣味は風景画を眺めることであったが、高級な美術品を買い漁るようなことはなく、一年に一度、画商がもってきた名もないような作家が書いた何気ない風景画を数点買い求めるだけで、それを飽きもせずにぼっと眺めるだけであった。この点も樹弘と非常によく似ていた。

 「太子。ようこそおいでくださいました」

 代官を務める岱毅は、大蔵卿を大任にある岱夏の子である。大蔵卿の息子ともなれば、泉春宮において官吏として仕え、行く末は卿になる道が用意されているのだが、この岱毅は進んで地方の代官となった変わり者であった。

 「国家の根底には民がおわす。その民とは泉春だけにおらず、泉国の各所で生活している。寧ろそっちの方が多いのであり、それらの生活を知らずして国家の中枢などにいることはできぬ」

 岱毅は官吏登用試験に合格すると、すぐさま父である岱夏に掛け合い、進んで地方代官となった。各地で功績を残し、地元の民には非常に慕われた。難民政策のために飛蝶に派遣したのも、その功績をもってしてのことだった。

 「厄介になります、岱毅殿。色々と勉強させてもらいます」

 拝跪する岱毅に樹元秀は丁寧に声をかけた。

 「では、兄上。私はここの司令官に挨拶をしてきます。また夜にお会いしましょう」

 樹武申はそう言うと馬にまたがり、部隊を率いて去っていった。ここから少し北へ行くと軍の駐屯地があった。樹武申はそこで宿営することになるのだが、夕食は兄妹三人で取ろうと約束をしていた。


 飛蝶は泉国の中では辺境にある邑であった。それでも邑の空気には田舎臭さはなく、一個の地方都市として洗練されていた。

 「街並みの綺麗さや人々の姿を見ていると、この邑がとてもよく治まっていると分かります。流石は岱毅殿です」

 樹夏蓮が民部次官として岱毅の手腕を手放しで褒め称えた。

 「お褒めに預かり光栄です。私の手腕というよりも主上の徳の賜物です」

 岱毅は謙遜するが、その両方であろうと樹元秀は感じていた。父である樹弘の徳は、今や泉国だけではなく中原全体に及んでいる。しかし、いくら国主の徳が良かろうと、治める実務者が無能であればその徳も台無しにしてしまうはずだ。

 「いや、主上の徳と岱毅殿の手腕が混じり合ってこその政です。我が国は良き行政官を得たものです」

 樹元秀は感じたことをそのまま口にした。岱毅は嬉しそうに目を細めた。

 「太子にそう仰っていただき、まことに嬉しく思います。我が国も太子のような御仁を得てますますの発展を見ることでしょう」

 「そうかな?」

 「そうですとも。主上の徳と私共臣下の業績を並べて評価された。臣としてこれほど誇らしいことはありません」

 「そうなのかな。私にはよく分からない」

 「分からないからいいのよ。自然とそういうことを口にできるから兄さんは太子に相応しいのよ」

 樹夏蓮が口を挟んできた。左様ですとも、と岱毅が相槌を打った。樹元秀は照れ臭くなって、それ以上何も言わなかった。


 その後、樹元秀と樹夏蓮は岱毅を引き連れて飛蝶の視察を行った。特に重点を置いたのは難民の保護施設であった。

 「現在、この施設には二十名ほどの難民がおります。基本的には国境の警備隊が見つけ次第、その場で自主的に帰国するように促しますが、帰国を拒む者あるいは病や怪我をしている者はここで保護しております」

 一通り岱毅が説明を終えると、樹夏蓮が部屋の数や働いている人員の数、かかっている費用などをつぶさに質問していた。樹元秀はそのやりとりを聞きながら、難民が収容されている部屋の一つを扉の除き窓から見た。

 独房とまでは言えながら狭い部屋であった。寝台と机、椅子があるだけで、便所や風呂はすべて共用だという。樹元秀が除き見た部屋の住人は老婆のようだった。寝台の上に座り、じっと扉と反対側の窓から外を見ていた。

 『翼国の方を見ているのか……』

 老婆の視線の方向は西、つまり翼国の方であった。難民全員がそうではないだろうが、この老婆は不本意のうちに難民とならざるを得なかったのではないか。そう思うと、樹元秀は涙を流しそうになった。

 「兄さん、何か質問ないの?」

 樹夏蓮が声をかけてきたので、涙を必死にこらえた樹元秀は応じた。

 「ここの者達はずっと部屋にいるのか?」

 「いえ、便所と風呂は共用ですので、部屋の外には出ますが、建物からは出せません。逃亡の恐れがありますので」

 「そうか……。しかし、罪人ではないのだから、ここに籠りきりというのは可哀そうだ。せめて敷地内の屋外で散歩をするなどことがあってもよいではないのか?もしそれについての人員と費用がかかるというのであれば、私から朝議にかけよう」

 樹元秀からすると思い浮かんだ感情のまま提案したつもりであった。しかし、樹夏蓮と岱毅は虚を突かれたように顔色を改めた。

 「保護難民の待遇について思い至りませんでした。これは私の失態であります。すぐさま提案書を認めますので、是非とも朝議でお諮りくださいませ」

 岱毅は我が身を恥じるように身を小さくしていた。その隣で樹夏蓮が満足そうに微笑んでいた。

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