春陽の風~4~
翌日、樹元秀は泉春宮の書庫の一角にある個室にいた。ここで樹夏蓮と難民問題についての協議を行うことになっていた。泉春宮の書庫は他国と比べても非常に大きく、閲覧者のためにいくつかの個室が設けられていた。
樹元秀は妹よりも先に到着していた。眠たい目をこすり、軽く小さな欠伸をしていると、樹夏蓮が書類を抱えて入ってきた。
「兄さん、どうしたの?ひどい顔をしているわね」
嫌なところを見られた。欠伸をかみ殺していると、寝不足なの、と心配そうに樹夏蓮が顔を覗き込んできた。
「徹夜で勉強したんだよ」
「学士の定期試験じゃあるまいし……」
書類の束を机の上に置いた樹夏蓮が正面に座った。どかっと腰を下ろした衝撃で書類の束が雪崩を起こしたが、樹夏蓮はまったく気にしていなかった。
樹夏蓮は樹元秀よりも二歳年下の十七歳。学才だけではなく、美貌も世間でよく知られており、母である樹朱麗の良きところをすべて受け継いだと言われている。そのような風聞も樹元秀を気後れさせていた。
「夏蓮は元気そうだな」
「寝不足は万病の元よ。さぁ始めましょう」
樹夏蓮は雪崩の起きた書類の束から起用に必要な書類を取り出していった。
「私も色々と調べたんだけど、他国の難民を保護したという事例がないのよね。主上が他国の難民に厳しい姿勢をとる理由は二つ。一つは難民の母国への配慮。もう一つは自国の民衆への配慮」
民衆とは国家にとって貴重な労働力である。これを他国に盗られるのは面白くないであろう。また自国の民衆からすれば、他国から流れてきた者が住み着いては仕事や耕作地を盗られるだけで面白くない。樹弘だけではなく、どの時代のどこの国主も難民の保護に慎重なのはそのような理由があった。
「他国との軋轢という点でいえば今のところ問題ないわ。主上は中原の国主から慕われているから、自国の難民を保護したところで感謝しても非難することはないでしょうね」
「ちょっと待て、夏蓮。お前は私の意見に賛成なのか?」
樹元秀の提案は現実的ではない夢想に過ぎない。自分でもそう思っているところであり、樹夏蓮は面と向かって反対してくるものとばかり思っていた。しかし、樹夏蓮は樹元秀の意見に寄り添おうとしている。
「当たり前じゃない。私は兄さんの意向を実現させるためにいるのよ」
「私の意向って……。お前の考えはどうなんだよ?」
「私の意見ということで言えば、難民を安易に保護するのは反対。特に我が国が発展している現状では不作為な人口増加は歓迎できないのよね」
「じゃあ、どうして反論しないんだ」
「それはそれ。これはこれよ。兄さんが国主となったあかつきには私は臣下となるんだから、兄さんの意向に沿うような提案をするのは当然でしょう」
さも当然のように樹夏蓮は言った。
「私が国主か……」
「まぁ、その前にどこかに嫁いでいるかもしれないけどね」
それはそれで面白いかも、と樹夏蓮ははにかんだ。
「夏蓮は……国主になりたいと思ったことはないのか?」
「ないわよ」
兄からの突然の質問に妹は即答した。
「私はね、兄さん以外に次期国主に相応しい人間なんていないと思っているわよ」
「買い被り過ぎだな。私はそんなに優秀な人間じゃない」
兄さんは卑屈すぎる、と樹夏蓮は言った。
「でもな、私は夏蓮ほど学識はないし、武申ほど武芸が達者ではない。私には何もない。偶々長兄だから太子になっているだけだ」
「そんなことないわよ。兄さんには兄さんにしかないものを持っている」
「私にしか持っていないもの?」
「あれは八年前……もうちょっと前かしら、私達家族で地方に静養に行ったことを覚えていない?」
覚えているような、覚えていないような。
「私達三人、子供達と甲丞相である邑にお邪魔したこと時なんだけど、その邑の人々は総出で歓迎してくれわ」
「そういういえばあったな。あれは泉冬か……」
「そうだったと思う。で、私達は宿舎で御馳走をいただいたのよ。地方の珍しい料理だったから、私と武申は喜んでありついた。でも、兄さんだけは料理に手を付けずにじっとしていたのよ」
そんなことあったのか。樹元秀はまるで覚えていない。
「それで甲丞相が訊いたのよ。太子、どうしてお食べにならないのですかって。そしたら兄さんはこう答えのよ。どうしてこの者達には食事がないのか。自分だけ食べるわけにはいかないってね」
なんとなく情景を思い出してきた。確かにあの時、自分の目の前にあった御馳走の向こう側に泉春の民衆がいたはずだ。彼らの前には確かに食事はなかった。
「そんなことあったかな……。でも、それがどういうことだよ」
「まずは民衆を思いやる気持ちよ。私も後になって甲丞相から聞かされて恥ずかしくなったぐらいよ」
「私はそんなことを覚えてもいなかったが……」
「兄さんにとってそれは自然なのよ。そうだ、行ってみましょうよ」
「どこへ?」
「翼国との国境へ。難民の現状を見に行きましょう」
そうしましょう、と言って樹夏蓮は席を立った。ちょっと待て、と樹元秀が声をかけた時にはもう部屋を出ていた。




