春陽の風~2~
朝堂に到着するとすでに閣僚、将軍達は到着していた。
樹元秀が姿を見せると彼らは一斉に立ち上がり立礼をした。樹元秀も立ち止まって立礼をし、上座の左隣に座った。真正面には丞相の甲朱関が座っている。
しばらくして国主である樹弘が現れた。樹元秀を含めて全身が立礼をする。樹弘も丁寧に立礼した。
実のところ、国主や太子が臣下に向かって礼をするという習わしは中原には存在していなかった。これは樹弘が国主になってから始めたことであり、身分の上下に関わらず他者に敬意を示すために行われていた。
「国主と言えども人だ。他者への礼節というものは大切にしなければならない。臣下に民衆に礼節をもって敬意を持てば、上に立つ者も自然と敬意をもたれ、人々も互いに尊敬し合える間柄になるはず」
樹弘は常にそう言い続けてきた。そのせいか泉春宮では閣僚官僚が互いに互いのことを尊重し合い、野心をもって他者を蹴落とすような者は皆無であった。事前と汚職なども発生せず、後世の歴史家は、樹王朝三代は最も清廉な時代、と評していた。
『やはり父は偉大だ』
父の偉大さは他者にそれを強制するのではなく、自ら実践して他者に見せることだった。樹元秀も父がしているのを見て倣っているだけであり、もし自分が父の立場なら同じことをやっただろうかと思うとやっていないと断言できた。
「皆、今朝もご苦労様です」
樹弘は労いの言葉を言うと、国主の席に座った。それに続いて樹元秀達も座った。
「では、まず民部卿からの報告です」
朝議の司会は丞相が行う。閣僚や将軍達が自らの分野で起こっている諸問題や事業の進捗状況などを報告した。それに対して他の者達があれこれと意見を言って討議していた。
この間、樹弘はほとんど口を差し挟まず、じっと黙って閣僚達の討議に耳を傾けていた。たまに
「今の意見について丞相はどう思うか?」
「この件については式部卿の見解を聞きたい」
などと討議に参加していない者に意見を求める程度で、結論についても討議の結果を尊重していた。
今日も樹弘は黙って閣僚達の意見に耳を傾けていた。時折、心地よい音楽でも聴いているかのように目を閉じたかと思うと、手元のある筆を取り寄せて何事かを帳面に認めていた。
朝議は通常、一刻ほどで終わる。発展を続け、安寧そのものの泉国において大小様々な問題がある。最近、泉国を悩ませているのは翼国からの難民であった。
翼国は名君楽乗が亡くなり長子の楽清が継いだが、政が上手くいっていない。片や隣国で発展している泉国を見ると、翼国の民衆が越境しようと考えるのは無理からぬことだった。
「民部次官の報告によりますと、すでに今月で三十名の難民を確認し、翼国へと送還しております」
民部次官は樹元秀の妹―樹夏蓮である。彼女は泉国の火急の問題である難民対策を担当していた。
ちなみに樹弘は難民については強硬な姿勢も持っている。国内の紛争などやむを得ない場合を除いて、基本は難民を母国に送還させていた。
「難民の数は月を経る毎にに増えております。今後も送還することを前提に、国境をより警戒するということでよろしいかと思われます」
丞相の甲朱関がまとめた。閣僚達は同意するように頷いた。それでこの問題については終了となるはずであった。しかし、樹弘が手を上げて発言をした。
「この問題について太子はどう思う?」
突然のことだった。これまで樹弘が樹元秀に意見を求めてくるなどないことだった。閣僚達も一同驚いた様子で樹元秀を見つめてくる。
一瞬にして頭が真っ白になった樹元秀は日頃思っていることを口にしてしまった。
「難民とは言え、食うに困った者達もおりましょう。母国に送還するしても食糧を持たせたり、手厚く送り返すことがあってもよろしいのではないですか?」
難民対策について樹元秀は一家言を持っていた。難民を帰すにしても当面の食料や作物の苗などを渡してやってもいいのではと常日頃から思っていた。
「それではさらに難民が増えるぞ。しかも、泉国の臣民が難民ばかり贔屓して不公平だと声を上げるかもしれないぞ」
樹弘は息子の方を見て言った。その瞳には息子の失言を咎めるような怒りの色は見えず、寧ろ優しげにすら見えた。
「左様かもしれませんが、同じ中原の民です」
樹弘は黙った。しばらく考えるようにして目をつむった。
「主上……」
困惑した甲朱関が声をかけると、樹弘は目と口を開いた。
「この件については太子と民部次官で詰めるように。一ヶ月以内に結論を朝議で披露するように」
他に何もなければ散会しましょう、と樹弘は朝議を閉めた。樹元秀は何も言えず、なかなか席を立つことができなかった。




