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七国春秋  作者: 弥生遼
黄昏の泉
73/960

黄昏の泉~73~

 貴輝はすでに泉国の国都であると言っても過言ではなかった。相宗如が帰服したことにより、野に下って潜伏していた相蓮子の旧臣達も貴輝に集まってきて、すでに現状の区画だけでは住民を収容することができず、城外に拡張するまでになっていた。その日も樹弘は、景朱麗と甲元亀を交えて都市計画について話をしていた。

 「勿論、貴輝は今後も我が国の要所となりましょうから、都市区画を拡張するのはやぶさかではありませんが、現在の我々の財政状況では限界はあります」

 甲元亀は樹弘陣営の財務一般を取り扱っていた。相房の乱以前は、陪臣ながら泉国の財政顧問のような仕事をしていただけに相応しい役職であった。

 「主上。すでに機は熟したと見るべきです。朱関が言うには軍事的にも十分であるとのことです」

 景朱麗が言うのは、当然ながら泉春への進攻のことである。すでに泉国における主要な拠点は掌中にしている。残すは泉春のみという状況にはなっていた。

 樹弘としてもそのことは理解していた。相宗如を得た時点で、いつその時が来てもいいという覚悟はしていたのだが、気がかりなのはやはり泉春の住民のことであった。徒らに泉春に侵攻しては、相史博が彼らに害を与えてしまう懸念が残されていた。樹弘がそのことを言うと、甲元亀が尤もなことですと返した。

 「その点につきましては朱関とも協議しております。あまり時間を置き過ぎてもよろしくありませんので……」

 そこへ景蒼葉が入ってきた。厳侑が面会を求めていると言う。樹弘はすぐさま厳侑を通させた。

 厳侑は泉春近郊の情報と、柳興の降伏について語った。柳興の娘の話が出た時、樹弘は一瞬眉をしかめたが、黙って厳侑の話を最後まで聞いた。

 「降伏するのであれば勿論受け入れよう。しかし、息女の件については無用であると伝えてください」

 「承知しました。ご息女のことについては、主上はあまりいい顔をされないと申し上げたのですが、柳興という人はあまり他者の忠告を聞かない人物でして……」

 厳侑は困り顔であった。

 「その様子だと、柳興という男は無理矢理にでも娘を差し出してくるかな」

 樹弘は苦笑した。仮にも一国の将軍が、生命の保全と事後の地位獲得のために娘をすがろうとする発想があまりにも滑稽に思えた。

 「自分の娘を質に出すようなことをするとは!主上、そのようなものを臣下としてお迎えする必要はありません」

 対して景朱麗は自分が差し出される娘であるかように激昂していた。

 「そこまで怒ることないですよ、朱麗さん」

 「しかし……」

 「ここまで来ればみんな必死なんですよ。厳侑、さっきも言った通り、降伏は受け入れるが、息女の件は無用です。但し、柳興が意地でも息女を差し出してきた場合は、その息女が不利益にならないようにしてください」

 承知しました、と厳侑は畏まったが、景朱麗はまだまだ不満そうであった。


 樹弘と厳侑がそのようなやりとりをしているとつゆとも知らない柳興は気が気でなかった。なかなか相史博から出撃の命令が下りてこなかったからである。

 『このまま勝手に出撃してしまおうか…』

 それとも娘を先行させて樹弘に差し出すか。柳興はあらゆる事態を想定し、どれが一番上策か考えてみたが、どれもしっくりとこなかった。不安と焦燥に駆られた柳興は娘ー柳祝を呼んだ。まだこの時点で柳興は娘に樹弘に降ることを打ち明けていなかった。勿論、柳祝は自分に降りかかる運命を知らずにいた。

 「お父様、お呼びでしょうか」

 柳祝の声はか細かった。色白で華奢な体つきながらも出るところは出ている柳祝の姿を見ていると、父親ながら艶かしい色気を感じることがあった。

 「祝よ。お前も昨今の情勢を分かっておろう。そのうえで言うが、丞相がお前を室に入れたいと申してきた」

 柳祝の細い眉がぴくりと動いた。その動作すらも妖艶さがあった。

 「これは当然断るつもりでいる。逆に樹弘様にお前を献じたいと思っている」

 柳祝は無言であった。元々寡黙な女であったが、このような問答に対して明確な回答をできるような女性でもなかった。

 そもそも自己の意思で自らの人生を決めるという精神すら乏しかった。父である柳興のいうことがすべてであり、そのことについて可も否も意思表示することはなかった。柳興もまたそれが当然であると思っていた。

 「近々、私に出陣の命令が下るであろう。その時にはお前を帯同する。そしてそのまま樹弘様に降伏するのだ」

 柳興は自分の策が万全であると信じて疑っていなかった。そんな父を見て、柳祝はわずかに悲しげな表情を作った。彼女は父が思っていると以上に聡明であり、父の過剰な自意識を危険に思うと同時に哀れに思っていた。

 その夜、柳祝は寝室に入ると、鏡の前に立った。人々は自分の容姿を讃えている。絶世の美女だとあからさまに歯の浮くような台詞で言い寄ってくる男も少なくなかった。相史博から色目を使われていることも多少自覚していた。

 だが、柳祝自身は、それほど自己の評価が高くなかった。自分にそれほどの価値があるのだろうかと疑問に思っていた。

 『私を樹弘様に……』

 樹弘のことは知っていた。知ってはいたが、その名を知っているという程度で、どのような男性なのか知識の片鱗もなかった。

 『この身を樹弘様に……』

 樹弘に献じるというのがどういうことか、それを知らぬほど柳祝は少女ではなかった。まだ男を知らぬ身であるが、男女の営みのことぐらいは理解していた。それを想像すると、柳祝は羞恥に体が熱くなった。

 もう寝てしまおう。所詮、柳祝は自らの意思と力で運命を変えられるぬのである。柳祝が寝る前に月を眺めようと窓辺に寄ってみると、無数の松明が群れをなして動いているのが見えた。それが波乱の運命の幕開けであるとは、まだ時は想像もしていなかった。

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