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七国春秋  作者: 弥生遼
黄昏の泉
71/958

黄昏の泉~71~

 樹弘軍に敗れ去った湯瑛軍の敗残兵が押し寄せるようにして泉春に戻ってきた。泉春宮は驚天動地の大騒ぎとなった。とりわけ相史博の動揺は激しく、自らも矢傷を負って帰ってきた湯瑛が目通りを申し出ても、

 「ふざけるな!負けて逃げ帰ってきた馬鹿に会う必要などあろうか!斬首だ!首のみを俺の前にもってこい!」

 顔を真っ赤にして相史博は怒鳴り散らした。これには延臣達が恐る恐る宥めた。

 「湯将軍は国軍の支柱であります。今ここで将軍を失えば、国軍は瓦解し、泉春は丸裸になるでしょう」

 そう言われれば、相史博としても湯瑛を許さざるを得なかった。さらに相宗如が樹弘に降ったという噂が広がり、泉春宮の延臣、将兵達の間で厭戦気分が広がっていった。

 「どうであろう。我々も身の振り方を考えた方がよいのではないか」

 「真主である樹弘様は寛容な人物と聞く。丞相の御印を手土産に降るべきか……」

 「いやそれは早計というものであろう。蓮子様の首を持っていった者達がどうなったか覚えていよう。ここはじっくりと情勢を見るべきではないか」

 そのような会話が泉春宮の各所で公然と囁かれるようになっていた。

 「あまりそのようなことを言うものではないぞ。どこに耳目があるか分からぬからな。切恒殿の例もあるからな」

 と言って、相史博に否定的な会話をする者達をやんわりと諌めた将軍がいた。右少将の柳興である。彼は相史博から将兵の離反を防ぐ地位にあり、言葉をもって将兵の軽率な言葉と挙動を諌めていたが、実のところ柳興自身が、

 『早々に何とかしなければ……』

 と人一倍に離反のことを考えていた。

 柳興は将軍であったが、根からの武人ではなかった。元々商人であり、相家に多額の献金をもってして将軍の地位を得たのであった。相軍の中には柳興のことを『金が買った将軍』と陰口を叩く者も少なくなかったが、柳興にはまるで気にしないふてぶてしさがあった。

 だが、徒手空拳に樹弘に降っても、許されるどうか分からないし、許されてたとしても新政権でいかほどの地位が得られるか不明であった。どちらにしても手土産はいる、といかにも元商人らしい投機的な考えを巡らせていた。

 『幸いにして柳祝がいる……』

 柳興には採算があった。彼には柳祝という娘がおり、これが絶世の美女として世間に知られていた。その柳祝を樹弘に差し出そうというのが柳興の考えであった。

 『正妻でなくても、柳祝ほどの美貌があれば樹弘もほっておかないだろう。子を産めば、私は次期国主の外戚となる』

 まさに奇貨というべきだろう。柳興は俄然やる気が出てきた。そうなれば早々に樹弘陣営と接触をもたなければならない。その点、元商人というのは利点であった。商人というのは独自の情報網とつながりがあり、樹弘と密接につながりがある商人が厳侑であることを突き止めた。

 厳侑は反乱を起こした景政とつながりあったということで、泉春追放の憂き目に遭っていた。尤も、厳侑は近いうちに泉春を引き払うつもりでいたのでそれほどの痛手にはならず、現在は麦楊に活動拠点を置いていた。

 柳興は密かに泉春を出て、麦楊で厳侑と密会した。柳興は恥や外聞を捨てて、素直に打ち明けた。

 「もう相家の支配は限界だ。この際は真主のために尽くして、泉国の安泰のために働きたい。そのために娘を質に入れてもいい」

 娘を質に入れる。その意味を厳侑は正確に理解していた。

 『要するに娘を差し出すということか……』

 厳侑は嫌な顔をした。そういうことを樹弘が好まないことは、樹弘の陣営にいる者は周知のことであった。しかし、柳興は厳侑の表情を別の意味に捉えた。

 「私はすでに武人だ。別に君の地位を横取りするつもりはない」

 柳興は身を乗り出した。彼としてはここで厳侑の機嫌を損ねるわけにはいかなかった。

 「一応、主上にはお取次ぎしますが……」

 「頼む」

 柳興は自分よりも明らかに年下の厳侑に深々と頭を下げた。これで樹弘軍に降れるのなら安いものだという打算が柳興にはあった。


 しかし、柳興の算段はすぐに狂い始めた。厳侑と接触した翌日、相史博に呼び出されたのである。

 『まさか樹弘陣営と接触したのがばれたのか……』

 柳興は肝を冷やしたが、思いのほか相史博の表情が穏やかなのを見て、そうでないらしいとやや安堵した。

 「柳将軍に来てもらったのは他ではない。現在、柳将軍は右少将であるが、この度、左中将に受任したいと思う」

 柳興ははっとした。数年前であるならば、喜悦すべきことではあったが、泥舟の状態にある現状での三階級昇進などありがたくもなんともなかった。

 『寧ろ迷惑だ……』

 柳興はそう思いつつも、それを表情に出さず、さも嬉しそうに叩頭した。

 「その代わりと言ってはなんだが、そなたの娘を我が室に入れたいと思うが、どうだろうか?」

 柳興は肝を冷やすどころではなかった。一瞬、心臓が止まりそうになった。このまま諾と言ってしまえば、娘を差し出して樹弘陣営に降る算段がご破算になってしまう。

 そもそも柳興は、相史博に娘を差し出そうとしていた。そのため相史博が参加する宴席に何度も娘を帯同させていたのだが、それが完全にあだとなってしまった。

 「と、唐突のことですので……畏れ多いことでもありますし、即答はしかねます……」

 ようやく搾り出した言葉に、相史博は失望の色を落とした。柳興が諸手を持って歓迎すると思っていたようである。

 「そうか……。色よい返事が聞きたいものよな」

 相史博は不機嫌を隠さなかった。言葉こそ柳興に判断をゆだねるものであったが、事実上の脅迫であることは明白であった。柳興の体の震えは止まらなかった。

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