浮草の夢~86~
春の陽気である。
その男は、毎年この季節になると、唐和の邑を訪ねていた。唐和はかつて国主である源真の所有地であり、現在では静国の直轄地となっていた。直轄地となれば租税が驚くほどに安くなった。唐和の場合はそれだけではなく、近くには源家の御陵群があり、その管理費として金銭が唐和に下されていた。小さくはあったが、非常に裕福な邑であった。
男にとってはそのような事情はどうでもよかった。唐和を訪れるのも、過去の感傷と向き合うためでしかなかった。
男は決まって同じ御陵を訪ねていた。他の御陵とは違って誠に小さく、子供が作った砂山のような墳墓が忽然と存在しているだけであった。しかし、その背後には大きな山塊がある。これは山などはなく、名君と言われながらも晩節を汚した源冬の御陵であった。男が訊ねたのは源冬の御陵ではなく、それに守られるようにして存在する小さな墳墓―頓秋桜の御陵であった。
男が参道を進むと、墳墓の前の祠に一人の女性が膝をつき、手を合わせていた。祠には一輪の花が供えられていた。
この女は見かける年もあれば見かけぬ年もあった。確か昨年は見かけている。少しばかり会話もした。彼女は唐和に住んでおり、毎日ここを訪れていると言っていた。何故、毎日来ているのかと問うと、昔世話になったからだと答えていた。
「今年もお会いしましたね」
男が声をかけると、
「ああ、昨年もお会いしましたね」
女は男のことを覚えていたようだった。
女はどれぐらいの年齢なのだろうか。自分と同じぐらいにも思えるし、自分よりも若いようにも見える。身なりはよく、相応の身分のある貴婦人に違いなかった。
「今年もこの季節となりましたね」
女が場所を譲ってくれたので男は花を供えて手を合わせた。
「本当に。貴方も毎年、よくお参りで」
「貴女には負けますよ」
「私は近くに住んでいますから、それに生前の秋桜には世話になったから……」
女はかつての公妃を名前で呼んでいた。よほど親しい女性なのだろう。素性が気になったが、聞かぬことにした。自分も人に言える素性の人間ではない。
「そういう貴方はどうして毎年ここに?」
女が訊ねた。当然であろう。頓秋桜は源冬を誤らせた悪女として処刑された。その死から二十年以上経った今でも評判は悪い。源冬の御陵がすぐ傍に作られたのも、頓秋桜の墳墓に悪戯させないためとも言われていた。
「私は……彼女に恋をしていたのです。彼女が後宮に上がる前のことです」
「ああ、それなら私が知らないわけだ」
女は納得したようだった。
「尤も、一方的な片思いでした。あの人は私のことなど忘れていたでしょう」
「よかったらお名前を聞かせていただけますか?」
女が唐突に言った。男は迷った。言ったところでどうということはないだろう。しかし、男にとって頓秋桜は吉野に上がる前の姿でしかなく、後宮であのような形で出会ったことは決して男―楊桂の本意ではなかった。
「やめましょう。それは野暮というものです。私にとっての頓秋桜は吉野以前の女性。貴女にとっての頓秋桜は吉野以後の女性。そういうことにしましょう」
「……。それもそうですね」
女が微笑した。美しい女性だった。
「明子おばさん。ここにいましたか?」
参道の向こうから若い男の声がした。楊桂が振り向くと、若い男がいた。背が高く、男から見ても惚れ惚れするぐらいの美丈夫であった。
「ああ、ごめんなさい。そろそろ旦那様がお見えになるのでしたね」
女は楊桂に一礼すると、参道を戻り始めた。
「また来年、お会いできますかね?」
「さぁ……」
「その時は吉野での彼女のことをお聞かせください」
女は楊桂の問いに答えなかった。おばさんと呼んだ若い男と並んで一礼した。楊桂にしているわけではなく、頓秋桜の墳墓にしているのだろう。
「来年か……」
楊桂としては是非ともあの女と再会し、吉野での頓秋桜のことを知りたかった。そうなれば楊桂もまた吉野以前の頓秋桜について語れるだろう。来年の再会を期待し、楊桂は頓秋桜の墳墓に背を向けた。
浮草の夢~了~




