浮草の夢~79~
国主の座を退く。
源円の言葉に源冬は一瞬硬直したが、すぐに我を取り戻すると顔を紅潮させた。
「何を言うと思うえば!ふざけているのか!」
「ふざけておりません。これは私と真の意思でございます。御同意いただけなければ、私はこのまま去ります」
同意せねば吉野には連れて帰ってはならない。源円はそのことを源真から厳命されていた。
「調子に乗りよって!」
源冬は怒りのあまりに拳を振り上げた。しかし、拳を振り下ろす先の源円の冷え切った鋭い目を見ると、急に力を失ってしまった。
「それはお前達の本心か……」
「本心です。今や源家の名声は地に落ちております。それは当然、主上の現状と同意義です。静国を源家によって治め、天下万民に政治が変わったと知らしめるには吉野宮の人心を一新する必要があります」
源円に揺らぎはなかった。もし、源冬という君主が本当に愚かであったならば、ここで源円を退けたであろう。しかし、年老いたとはいえ源冬にはまだ君主としての知性が残されていた。源円の言うことがこれからの静国にとって最適であるという道理をまだ見失っていなかった。
「すべては静国のため、源家のためか……」
源冬は力なく項垂れた。源円はもはや余計なことを言わず、じっと父が次の言う言葉を待っていた。
「分かった。国主の座から退位しよう。儀式的なことは吉野に戻ってからするとして、今日よりお前が国主だ」
源冬は近くにあった静海の太刀を徐に源円に授けた。源円はそれが静国の神器であると知っており、恭しく受け取った。静国の歴史の中でこれほど簡易的ながらも劇的な国主交代劇はなかった。
「それで父上、私が国主となったからには閣僚の人選は私が行います」
「それが道理であろう」
「つきましては少々荒療治をせねばなりません。父上の身辺も騒がしくなると思いますが、ご了承ください」
源冬は顔を険しくした。源円が何を言っているのか、大よそ察していた。
「……お前が国主だ。好きにするがいい。ただ、秋桜だけには手を出すな……。いや、出さないでくれ。あれだげが余の生きがいだ」
「勿論であります」
源円としても今の時点では秋桜に手を出すことは考えていなかった。
源冬との対面を終えた源円は外で待っていた兵士達に静海の太刀を見せた。彼らは一様におおっと歓声をあげた。
「これでことは成った。これより私が国主だ。まずは閣僚を一新する。丞相頓庸以下、ここにいるすべての閣僚を拘禁せよ」
兵士達は頷くと、すぐに閣僚達の拘禁に走った。丞相頓庸のもとには源円自らが赴いた。突然の兵士達の乱入に困惑しながらも怒声を発した頓庸であったが、静海の太刀を携えて最後に入ってきた源円の姿を見て、観念したかのように大人しくなった。
捕縛の手は閣僚に留まらなかった。源円は源冬の股肱の宦官というべき高薛も捕らえた。これは源真からくどいほどに言い聞かされていた。
「正直なところ、頓庸などは小物です。父上が国主となれば自然と立ち枯れていくでしょう。しかし、高薛は別です。奴は宦官にしておくには惜しいほどの政治力と機略があります。思い返してください。清夫人を追い落とした謀略の中心人物は奴です。奴を自由にしておけば、お爺様を復権させるために動くかもしれません」
源円としても源冬に終始寄り添って来た老宦官が不気味で仕方なかった。狐狸は捕らえるに限るとばかりに躊躇いなく高薛を拘禁した。高薛は抵抗することもなく、何事か言うでもなく、黙って縄目をかけられた。
高薛が捕縛されたことを聞いた源冬は、流石に怒りを顕にした。
「高薛は余の半身も同然だ!それを捕らえるとはどういう料簡だ!」
源円を呼べ、と源冬は喚いたが、誰も取り合わなかった。すでに源冬は国主ではない。単なる隠居でしかなく、政治的な権力はほぼ失われていた。源冬はようやく自分の無力さを自覚した。
「安心しろ、秋桜。お前と代だけは余が必ず守ってみせる」
弟が拘禁されたことで不安を感じているだろう秋桜に源冬は優しく言って聞かせた。秋桜は美しく微笑するだけだった。源冬に残されたのは愛しの秋桜とその息子である源代だけであった。
国主交代から二週間後、いよいよ吉野に戻ることになった。その道中の馬車でも源冬は秋桜と源代から一刻も離れなかった。その姿勢はまるで二人の命を守る衛兵のようであった。




