浮草の夢~77~
衣泉が盆地にあることはすでに述べた。
吉野に万が一のことがあった時の副都、といえば聞こえがいいが、百五十年ほど前にあった大地震時に約五年間、臨時の国都として機能しただけであり、それ以後は人口百人程度の邑でしかなかった。
そのくせ国主が入る御座所は広大であり、これを補修、清掃をするのに近隣の領主達から人員と資材、金銭が徴用された。これもまた怨嗟の的となり、衣泉にたどり着いた源冬の人望はすでに失われていた。
ただ、源冬の耳にはそのような怨嗟の声は届くことなく、老いた国主の関心はひとり最愛の女性の容態に向けられていた。
衣泉へと逃避する道中、体調を崩していた秋桜は、興家の屋敷で休息をしてから小康状態を得ていたが、衣泉についてから度々発熱を繰り返していた。
「慣れぬ旅と緊張で体調を崩されているだけでありましょう。衣泉についてからはゆっくりとお休みになり、精のつくものをお召し上がりください」
医師はそう診断を下したが、源冬は気が気でなかった。
「精がつくものというが、何が良いのだ?」
源冬は寝台で横になる秋桜の手を握りながら医師に縋るように訊ねた。
「そうですなぁ……。この辺ですと猪肉などが捕れますから、それがいいでしょう」
「猪肉か……」
源冬は医師が下がると、すぐに猪肉を調達するように命じた。しかし、
「今すぐには無理でありましょう。多くの官人や近衛兵が宮殿の整備に追われております。しばらくのご猶予ください」
高薛がやんわりと猶予を願い出ると、源冬は嚇怒した。
「国主である余の言うことに従えぬのか!」
源冬が高薛に対して激しい怒りを見せたのはこれが初めてであった。宦官として、源冬が太子であった時から従って来た高薛は源冬からすれば親兄弟よりも親しい存在であった。同時に友人であり、師であり、一般的な主従という規範が当てはまらぬ間柄になっていた。その関係性の中に互いを諫めることはあっても一方的に怒りをぶつけることはなかった。
『昔の主上なら、この程度のことでは怒らなかったであろう』
高薛からすればそれが悲しかった。この怒声で源冬と自分の関係性が破綻してしまったことよりも、高薛の知る源冬が変わってしまったことが悲しかった。
『この状況であるから怒りやすくなったのか……それとも年を取られたからか……』
かく言う高薛も随分と年老いた。吉野からの逃避行は身体的にも精神的にも堪えた。源冬が変わってしまうのも無理がないことかもしれなかった。
「もうよいわ!余が獲ってくる!供せよ」
高薛に怒りをぶつけながらもお供するように命じる。いかにも貴人らしい振る舞いであった。
『私はこのお方と一生を供にしなければならないだろう……』
年老いた源冬が今後どうなるだろうか。もしかすれば吉野に戻ることなく、ここで生涯を追えるかもしれない。
『そうなれば私も追うだけだ』
お供いたします、と高薛は答えた。機嫌を直した源冬は満足そうに頷いた。
医師の助言に従い、静養を続けた秋桜は次第に回復していった。床払いできても心配な源冬は侍女である果明子が困惑するほど献身的に秋桜の世話を焼いた。
「主上はお休みください。これでもし主上が倒れられたら公妃様に心労が募ります」
果明子は勇気をもって源冬を諫めた。これに源冬が怒ることはなかった。
「そうか……」
源冬は果明子が拍子抜けするほど素直に従い、秋桜の看病を果明子に任せた。
「ありがとう、明子」
源冬が退室するのを見届けると、秋桜は果明子に礼を言った。
「礼を言ってもうことじゃないわよ。このままでは本当に主上も倒れてしまう。それじゃこんな所まで逃げてきた意味がないわ」
元気で吉野に戻らないと、と果明子は小さく笑った。
「これでちょっとは落ち着くわね。代もしっかりと勉学と武術に励んでくれればいいけど」
この時、秋桜と源冬の子である源代は十歳になっていた。健やかに育ち、勉学はやや苦手ながらも武術についてはなかなかのものがあると教師達が口を揃えていた。
「でも、ここに何年いるのかしら?半年や一年では無理でしょうけど……」
「何年でもいいけど。もう吉野に戻らなくてもいいと思っているわ。吉野の喧騒より、ここの方が落ち着く……」
「秋桜……」
「ごめんなさいね、明子。貴女にまで付き合ってもらって」
「別にいいわよ。公妃様の侍女長としていい思いをさせてもらっているから。嫌だと言ってもどこまでも付き合うつもり」
秋桜と果明子は後宮で働く侍女同士として出会い、いつしか寵姫と侍女、そして公妃と侍女長となった。しかし、二人の間にあるのは主従関係ではなく、明かな友情であった。その友情を信じ、秋桜はあるお願いを果明子にすることにした。
「明子。実はお願いがあるの」
秋桜が耳打ちした。その内容を聞いて、果明子は絶句した。
「やめてよ、秋桜。縁起でもない」
「そんなこと言わないで。貴女を友達と信じてお願いしているの。私は主上と運命を供にしないといけないけど、代には生きて欲しいの」
「その話、話として聞いておく。だから、実際にそうなった時、私は従わないかもしれないよ」
それでもいいわ、と秋桜は友に微笑を送った。




