浮草の夢~75~
威望を失ったのは源冬だけではなかった。
源円が撤退したことで安黒胡軍は吉野に入城した。この時の様子を的確に言い表した吉野市民の手記が残されている。
「隊列の先頭を行く安黒胡は恰幅も良く、全軍の総大将としてなかなかのものがあった。彼が率いる直轄軍も威儀があり、颯爽とした武者ぶりであった。しかし、殿に近づくにつれてまるで浮浪の集団のようになり、将兵の一人一人が虎狼のように獲物を探す視線を周囲に送っていた」
先陣こそ安黒胡が手塩をかけて育てた軍団であったが、中軍以下は決起してから集合してきた寄せ集めの集団であり、彼らは一刻も早く国都を占領した軍隊らしく、吉野の全てを奪いつくしたいという欲望に満ち満ちていた。
「吉野ではあらゆる略奪、暴行を禁じる。今でこそ無主の地だが、いずれ主上に戻っていただくのだ。無礼があってはならぬ」
安黒胡は全軍に厳命したが、一日を待たずして破られた。市民の言う浮浪の集団がすぐさま吉野の各地で商店への略奪と市民への暴行が始まった。それに後れを取ってはならぬとばかりに安黒胡軍の将兵までもが略奪を開始し、彼ら同志で喧嘩とは名ばかりの殺生が多発した。挙句には吉野宮も略奪の対象となり、残された宝物が次々と盗み出されていった。
「誰が略奪をしていいと言った!やめさせろ!」
吉野宮を接収し、そこを拠点としていた安黒胡は嚇怒してやめさせるように命じたが、ほぼ全軍が盗賊のような状況になっては止められるはずもなかった。
「父上。勝利を得た軍隊が精神的に高ぶり略奪などを行うのは必定であります。これを押さえるには父上が威をもってならるべきです。それは静国の将軍としての立場ではなく、もっと最上のものでなければなりません」
息子の安遁がそう進言してきた。これは明かに父を国主にし、自分がその後継者となるという彼の野望をもっての提言でしかなかった。安黒胡は我が子の野心を把握しており、度々自制させてきたが、吉野で行われている惨状を終わらせるにはそれしかないとも思っていた。
「遁の言うとおりであろう。吉野が無主の地となってしまっては政治をする者が必要。俺が将軍であっては政治はできぬ」
安黒胡は臣下からの推戴という形を取り、静国の国主となることを宣言した。この時、静国の神器である『静海の太刀』は源冬によって持ち出されているので安黒胡は仮主となる。但し、静国の国史では安黒胡のことを仮主としても認めておらず、単なる謀反人として名を記されていた。
安黒胡が国主となったことと、治安に対する強化策を打ち出したことにより、吉野での略奪と暴行はひとまず沈静化へと向かった。しかし、別の問題が浮上してきた。食糧問題である。
「食糧がないだと?」
「はい。一週間もすれば軍勢を養うための兵糧が底をつきます」
安黒胡が国主になったことにより左大将となった安義四が切羽詰まった顔で報告をした。
「ないのであれば調達すればいいではないか?吉野宮にあった金を質にして商人から買えばよかろう」
「それが……」
その方法はすでに実施しようとしたと安義四は言う。しかし、商人達は口を揃えて食糧がないと首を振った。価格を吊り上げるために隠しているのではないかと思い調べさせたが、本当に吉野近隣の食糧が底をついている状況にあった。
「このままでは民衆の食糧に手をつけなければならなくなります。そうでなければまた略奪などの暴動が起きましょう」
いかがしましょう、と問われて安黒胡は答えに窮した。安黒胡は有能な武人ではあったが政治家ではない。政治的な問題を出際よく処理できるほど知識も経験もなかった。
「丞相はなんと?」
丞相は息子の安遁である。安黒胡としては別の人物を丞相にするつもりでいたが、安遁が執拗に丞相就任を請うので仕方なく丞相にしたのであった。
「さて……俺も知らぬのです」
安義四は首をひねった。丞相となった安遁は政務することなく、吉野の妓楼で遊び惚けているという。そのことは安黒胡の耳にも入っていたが、姿を見せぬ以上小言も言えなかった。
「どうすべきか……」
考えても妙案が思い浮かばなかった。安黒胡としてはすぐにでも吉野に入ってすぐに軍を解散すべきであった。そうすれば多くの将兵が一時的に故郷に帰るので食い扶持が減り、食糧問題で悩むことはなかったのである。しかし、多くの将兵が国都の味を知ってしまった今となってはこれも難しい問題であった。
さらに安黒胡を悩ませる事態が発生した。安黒胡の元にいた藤純がかつての東方海賊の拠点でようやく蜂起したのである。東方にはまだ源冬のために戦う勢力があるのでこれを討伐するのを助けて欲しいという救援要請が来たのである。
源冬を追って南下するのか。それとも藤純を助けるべきか。安黒胡は即断できなかった。




