浮草の夢~73~
安黒胡軍は一万五千名の大軍勢となって吉野近郊に到達した。この時すでに安黒胡は吉野の状況を大よそ知っていた。源冬と秋桜、そして頓庸はすでに逃げ出し、太子である源円がわずか百名程度の兵で守っているだけ。もし戦えば勝利がどちらに転がるか火を見るよりも明らかであった。
「もはやまともな戦とならないだろう。我らが憎むは頓女と頓庸であり、太子ではない。太子に生命の保証を条件に降伏していただこう」
源冬を誤らせた秋桜と頓庸を排除するとして決起した以上、安黒胡としては源円に危害を加えるわけにはいかなかった。
「父上、それはいけません。父上が至尊の地位に着くためには源家を滅ぼさねばなりません」
安黒胡の方針に異論を唱えたのは息子の安遁であった。安遁には明かに野心があった。父である安黒胡が国主となれば、その跡を継ぐのは自分。即ちいずれ自分も国主になれる。そういう短絡的な考えを持ち合わせていた。
「それはならんぞ、遁。それでは我らの大義を無くす」
安黒胡は息子の浅はかな思考を察していた。だからこそ彼の意見を認めるわけにはいかなかった。
「しかし……」
「円様には武装解除をしていただき、奸臣を排除するための綸旨を賜る必要がある」
無用な戦は避けるべきだ、と安黒胡は有無を言わせなかった。
実は安黒胡軍は切実な問題を抱えていた。兵糧が不足してきているのである。急速に兵数を増やしていった安黒胡軍には一万名以上の将兵を食わすほどの兵糧を準備していなかった。これまで各地で有力者からの献上があったり、あるいは略奪してなんとかなってきたが、今後吉野を拠点にするためには略奪などできるはずもなかった。
『速やかに吉野を開城させて民衆の機嫌を取らねば我が軍は飢える』
安黒胡は急かすように使者を吉野に向けて発した。
源円からの返事は安黒胡の期待に反するものであった。
『降伏を申し入れるなど武人として恥辱である。貴殿も武人であるなら潔く戦うべし』
源円の返書は実に好戦的であった。安黒胡は太子である源円について知るところが少ない。しかし、これほどまで好戦的であったかと問われれば首をひねるしかなかった。
「向こうが戦いを望むのであれば応じるまでだ。どうせすぐ終わる」
兵力差を考えれば籠城戦とはいえ一週間もかかるまい。安黒胡だけではなく、誰もがそう思っていた。
しかし、源円は実に一ヶ月半に渡り戦った。源円は吉野の城壁沿いに出城を築き、そこに総兵力を籠めた。吉野の街を戦火に巻き込まないための措置であるが、同時に味方の戦力を集中し、敵を翻弄するためのものであった。
安黒胡軍としては無視することはできなかった。参加している将兵達もひとつでも手柄を得るためにこの出城に殺到した。それこそ源円の思う壺であった。源円は出城に籠りながらも時として打って出て密集した敵戦力を寸断した。安黒胡軍は完全に出城に釘付けとなった。
「円太子とはここまで戦ができる御仁だったのか」
安黒胡は純粋に源円の戦ぶりを称賛した。源円はこれまであまり戦場での活躍が聞こえてこない人物であった。太子という立場上、戦があっても吉野の留守を守ることが多く、戦場に出ても配下の将軍に任せていた。しかし、今戦っている源円は前線で指揮をし、劣勢の籠城戦を見事に戦い抜いている。敵ながら見事としか言いようがなかった。
「やはり太子は死なすわけにはいかない。太子は殺さず捕らえるのだ。それができた者には将軍の地位を約束するぞ」
安黒胡のこの宣言に将兵は色めきだった。こういう手柄を立てる機会があるからこそ安黒胡についてきた連中ばかりである。出城への攻めは苛烈になっていった。
「そろそろ頃合いだな」
安黒胡軍の猛攻がより激しくなったことを感じた源円は潮時を感じていた。源円達は圧倒的に人数が少ない中、よく戦った。源冬一行を大きく逃がすことにも成功したし、吉野の民衆は質朴に戦う源円を賞賛していた。
「遺憾ながら今宵でこの出城を放棄する。夜陰に紛れて各自逃げるんだ。私は南へと逃れて真と合流する」
源円はこれまで付き合ってくれた近衛兵達を労いながら、忽然と出城から姿を消した。
翌朝、出城に人の気配を感じないことに気が付いた安黒胡軍が突入すると、そこはもぬけの殻であった。
「撤収までも鮮やかなものだ」
安黒胡はあえて源円を追撃しなければ行方を追うこともしなかった。それが果敢に戦った源円に対する礼儀であると思っていたし、今は早く吉野に入って将兵達を休ませたかった。
「吉野に入るぞ。皆、秩序をもって入城するのだ」
安黒胡は威厳をもって全軍の将兵に命じた。




