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七国春秋  作者: 弥生遼
浮草の夢
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浮草の夢~72~

 一夜にして源冬は方針を変えた。

 「余は一時、衣泉へと遷都する」

 源冬は勅命として宣言した。衣泉は吉野から南西にある山間部の盆地にある小都市である。国都である吉野に万が一の事態が発生した時に首都機能を移すために作られた都市である。尤も衣泉に遷都されたことは有史以来一度しかない。その一度は百五十年ほど前に発生した大地震のために吉野が壊滅的状況になってしまったがためであり、内乱で吉野を放棄するのは初めてのことであった。

 「御英断でございます。賊徒の勢いも一時的なもの。すぐに天下の義軍が主上の下に馳せ参じましょう」

 丞相頓庸はそのように源冬の決断を褒めた。遷都とは言えば聞こえはいいが、要するに国都から逃げるのである。しかも、安黒胡軍が迫っているとなると急がねばならず、吉野では上へ下への大騒ぎとなった。吉野宮にいる閣僚官吏は勿論ながら、後宮の寵姫や女官、宦官達も大慌てで衣泉へ移動する準備をせねばならなかった。

 最も割を食ったのは吉野の民衆であった。彼らは安黒胡が攻めてくると知ると一様に恐れおののいた。自分達を見捨てるのかと源冬のことを罵る民衆もいれば、中には源冬について衣泉へと行くと言う民衆もいた。だが、逃げる側からすれば彼らが足手まといになるのは目に見えていた。

 「諸君、安心するがいい。吉野には私が残る。安黒胡などの好きにはさせん」

 動揺する民衆の前に身を晒して訴えたのは源円であった。源円は近衛兵団の長として吉野に残ることを宣言した。このことにより国都を捨てる源冬の人気は急落し、逆に源円の人気が急上昇した。

 源冬が遷都を宣言して四日後、吉野宮はもぬけの殻となった。泉衣へと向かう馬車の数は五十乗にも及んだ。その隊列は秘するように深夜に南門から脱出した。

 「円、後のことは頼んだぞ。死するぐらいなら降伏しろ。安黒胡は勇者を遇することを知っている男だ」

 馬車に乗る源冬は見送る息子に声をかけた。

 「主上、安んじてご出発ください。必ずや再び吉野に戻れるようお迎えいたします」

 源円は僅かに頭を垂れる間際に源円の隣に座る秋桜を見た。伏し目がちで源円には目を合わすことはなかったが、源円の方ではその姿が目に焼き付いた。 

 『何とも可憐な女性だ……』

 初めて見た時よりも年月を経ているはずなのに、秋桜の美しさは一切変わらず、寧ろそこに妖艶さが加わったような気がした。その色香が源冬を惑わし、今の事態を招いたと言えるのだが、源円としても自分の傍に秋桜がいれば同じ過ちをしたのではないかと思えるほど、秋桜の美しさは異様であった。

 『いや、私の女であったならば……』

 このような過ちは発生しなかったのではないか。そう自惚れたくなるほど、源円は秋桜の美しさに惹かれていた。

 源冬と秋桜を乗せた馬車が去ると、その後ろを頓庸の馬車が過ぎていった。頓庸は馬車を止めることもなく、当然ながら源円への挨拶もなかった。

 『小僧め!』

 源真の描いた脚本によれば、事態が収束した暁には源冬に国主交代を迫り、源円が国主となるはずである。そうなれば頓庸の殺生与奪など思うまま。源円はそう考えることで留飲を下げた。

 「さて、こうしてはおられんぞ。もうすぐ安黒胡が来る。抵抗する準備をせんとな」

 予め源真からやるべきことを教授されていた。安黒胡が来襲するまでの時間でどれだけのことができるか分からなかったが、残された源円はやるしかなかった。

 吉野に残った源円は、まず吉野宮にあった財宝や美術品の一部を売却することであった。事前に見積もらせており、源冬が吉野退去後すぐに外へと運び出させた。

 「売却するなら全部売却すべきではないか?」

 源円はこの計画を聞かされた時、源真に訊ねた。

 「ある程度残して安黒胡軍に略奪させればいいのです。そうすれば民衆への被害が少なくて済むし、主上が逃げる時間を稼ぐことができます」

 源真の答えは理論的であった。我が子ながら恐ろしい頭脳だと思った。

 そして真に恐ろしいのはその後のことであった。

 「売却した資金で周辺の食料を買い占め、南へと送ってください。我らの兵糧となるだけではなく、吉野に駐屯するであろう安黒胡軍を飢えさせることができます」

 飢えれば安黒胡軍は吉野に長く留まることができない。それが源真の狙いであった。

 「今でこそ安黒胡軍は強大な勢力となっていますが、所詮は烏合の衆です。将兵の中には安黒胡について吉野に行けば飢えずに生きていけると思っている者もおりましょう。それ希望を打ち砕けば安黒胡軍は容易に南進することはできないでしょう」

 あとは私にお任せください、と源真が不敵に笑ったのを源円はこの時ばかりは心強く思った。

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