浮草の夢~71~
安黒胡軍が襲来すると知った源冬は比較的に落ち着いており、すでに方針を決めていた。
「安将軍は余が憎いのであろう。そうであるならば余がここで迎えてやらねば将軍も気が済まぬだろう」
源冬はそのような言い方をして、吉野を動かぬ決意を示した。安黒胡から耄碌と言われて激怒した源冬からすれば、ここで吉野から逃げれば耄碌したことを認めてしまうという思いがあった。
『冗談ではない!』
源冬の決意に対して頓庸は苛立った。安黒胡は事実上謀反を起こしているが、表向きは源冬を誤らせたとして秋桜と頓庸を討伐しようとしている。安黒胡軍が吉野に殺到すれば、一番に殺されるのは頓庸なのである。頓庸としては吉野から逃げるしか生き残る道はなかった。
一方で自らの権力の源泉が源冬と秋桜にあることを頓庸は知っている。吉野から逃げるのであれば源冬と秋桜を連れて行かねばならなかった。
しかし、頓庸がいくら説いても源冬は吉野から逃げることについて首を縦に振らなかった。頓庸は非常の手段に出るしかなかった。
後宮の生活は変わらなかった。
後宮の人々は、安黒胡軍が襲来するという事実を薄っすらと知ってはいたが、それがどのような事態を招くかまでは想像できずにいた。源冬が陣頭に立てば安黒胡も矛を収めるだろう。その程度の穏やかな認識が蔓延していた。
その穏やかさを討ち破ったのが頓庸であった。本来、国主以外の男性が立ち入ることを許されない後宮に頓庸が乗り込んできたのである。当然ながら門番を務める寺人は頓庸を制止したが、
「離せ!俺は丞相だぞ!姉に会いに来て何が悪い!」
自らの権威を固辞して頓庸は寺人を振り切った。
頓庸が訪ねてきた時、秋桜は窓辺で源代のための冬服を編んでいた。すぐ傍では源代が侍女の果明子と遊んでいた。
「姉上!非常の事態です。無礼をお許しください」
本来であれば、姉上ではなく公妃と呼ばねばならない。それができぬほど頓庸は焦り、逆上していた。秋桜は弟の突然の登場に格別驚くわけではなく、編み棒を膝の上に置いた。
「姉上。賊徒が迫っております。主上に御動座を願い出ても頷いていただけません。ぜひとも姉上から一言申し上げてください」
秋桜は暖かな眼差しを向けた。その視線に弟であってもぞくりとするほどの妖艶さを感じた。
『人に愛され、子を産めば、女はこうも変わるものか』
頓庸は結婚こそしていなかったが、公族貴族の娘達とそれなりに浮名を流していた。女のことはそれなりに知っているつもりであったが、それでも姉のふとした変化は意外に思えた。
「庸。私は主上に従うまでです。主上が動かぬと申されるのなら、私もここを動くことはありません」
秋桜は毅然としていた。そこには公妃としての自覚が見て取れた。本来であるならば、喜ぶべきところなのだが、今はそのような場面ではなかった。
「姉上!賊徒はあらぬ因縁をつけて私と姉上のことを糾弾しております。もし、賊徒が吉野を占領すれば、私と姉の命はないでしょう。そうなれば代様がどのようなことになるか。分かったものではありません」
頓庸は姉の泣き所を承知していた。一人息子の源代である。源代のことがあるからこそ秋桜は清夫人を追い落としたことについても黙って眺めていたし、公妃にもなったのである。
「庸。貴方は今、幸せですか?」
秋桜に問われて、はぁと間の抜けた返事をしてしまった。姉は何を言いたいのだろうか。
『幸せに決まっているだろう!』
思わしくな現状ではあるが、地方の寒村から出て一国の宰相になれたのである。幸せでないわけがなかった。
「姉上は幸せではないのですか?」
「幸せですとも。主上の寵愛を戴き、子供を成すこともできました。毎日、美食にありつき、美服を纏うこともできる。望む者を手に入れることも容易い。それは幸せ以外の何ものでもないでしょう。ですが、私はお父様の傍で働いている時は一番幸せだった気がします」
お父様とは養父の頓淵啓のことだろう。秋桜は養女ながらもそこで侍女として働いていた。それが今よりも幸せだという。頓庸には理解できなかった。
「今も幸せなのでありましょう。では、その幸せを守るために主上に一言申し上げてください。代様のためにも……」
秋桜は窓の外に視線を落とした。そこには水面が薄緑色に濁った池があった。
「私達の幸せなど、所詮は浮草の夢なのでしょうね」
池に浮かぶ何の変哲もない浮草。それが夢を見るというのであれば、汚泥のような池から出ることのない浅はかな夢。秋桜はそう言いたいのだろうか。
「私達、姉弟にとって今見ている風景は分不相応の夢ということですか?」
「さぁ、どうなのでしょうね。誰かに決められるようなことではないと思うのですが、私はあの池の浮草で十分でした」
「姉上自身がそう思われていても、今や姉上は国母です。主上の妃であり、代様の母です。ご決断ください」
「分りました。主上に申し上げます」
秋桜は再び編み棒を手にした。頓庸は頭を下げて無言のまま退出していった。




