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七国春秋  作者: 弥生遼
浮草の夢
692/964

浮草の夢~70~

 鐘欽死す。

 鐘孔軍大敗。

 これらの報せが矢継ぎ早に伝えられると、吉野宮は大混乱となった。

 鐘孔軍が地上から消えたとなれば、近隣で吉野を守れる戦力は近衛兵団しかない。しかし、その兵数はわずか二百名にも届かない。片や破竹の勢いで南下してくる安黒胡軍は当初三千名でしかなかった戦力は一万名に達しようとしていた。降伏した兵士や勝ち馬に乗ろうした各地の諸勢力が安黒胡軍に集まってきたのだ。

 「父上、これで吉野は落ちたのも同然ですぞ」

 安黒胡の兵車で手綱を握る安遁が嬉々として軽口を叩いた。

 「遁、油断するな。どんな快勝をしても、つまらぬ戦いで敗北した名将なんていくらでもいるのだからな」

 「父上は慎重すぎます。このまま吉野が落ちれば、父上が国主になるのですぞ」

 「滅多なことを言うな。俺は主上を頓女と頓庸を排斥し、主上をお助けするだけだ。自分が国主になろうとは思っていない」

 それは安黒胡の偽りのない本心であった。 

 「父上がそう思っていなくても、付き従っているみんなはそう思っていませんぞ。父上が国主になるからこそ、戦いに身を投じているのです」

 安黒胡が国主になれば、その分け前を得ることができる。安黒胡軍に参加している者達がそう考えるのも当然であり、安黒胡もそういう心理を理解できるし、利用してきた。だが、源冬への忠誠心が安黒胡には重く圧し掛かっていた。 

 「丞相や大将軍でも十分だろう」

 安黒胡はまだ自分の未来について正確に予見できずにいた。


 安黒胡軍が来る。

 このことで吉野宮では対策に追われていた。

 吉野に籠城して戦うか。野外で迎え撃つか。あるいは吉野を放棄していずこかで再起を図るか。どの方策を取るにしろ、まず矢面に立たねばならないのは近衛兵団を指揮する源円であった。

 「主上がどのような判断をするしろ、私はすでに覚悟を決めている。吉野を褥にして果てるつもりだ」

 源円は源真を呼び、覚悟のほどを伝えた。それに対して源真はわずかな冷笑をもって応えた。

 「真。真面目な話をしているのだぞ」

 「だからこそですよ。わずか三千名の兵に我が軍の精鋭が敗北し、今や吉野は風前の灯火。真面目でいては正気ではいられません」

 「お前はもう少し気骨のある奴だと思っていたのだが、臆したか?」

 源円は父として息子の冷笑に対して挑発をもってして応じた。源真は急に笑いを潜めた。

 「まさか。ただ私としては真面目な手段ではこの非常事態を打開できないと思っているだけです。この吉野宮にいる全員が馬鹿になれば、あるいは窮地を脱することができるかもしれません」

 「今ここでお前と抽象的な問答をしている暇はない。案があるのなら言え」

 「まず父上は死んではなりません。次期国主になってもらわねばなりませんから」

 「私に逃げろと言うのか?」

 「すぐに逃げてはなりません。ほどよく戦って逃げてください。そうなれば父上は吉野のために戦った英雄となるのです」

 「何を言っているのだ、お前は?」

 「爺様ではもう国は保てないということですよ。もはや爺様が何を言っても人々は動きますまい。そうなれば父上の名前をもってしてこの国は再起しなければなりません」

 源真の言いたいことは理解できた。確かに今ここで源冬が天下に安黒胡討伐の号令を出しても、どれほどの人間が従うというのか。源冬が駄目となれば源円自身が陣頭に立たねばならなかった。

 「お前はどうするのだ、真」

 「私はすぐに逃げます。南へ行って南方駐屯軍をもって安黒胡に対抗する戦力とします」

 静国は北方だけではなく南方と西方にも軍団を持っている。吉野に最も近いのは南方駐屯軍である。彼らは当然ながら変事を知って臨戦態勢を取っていることだろう。

 「南方駐屯軍を指揮しているのは林房か。確かに信頼のおける男だ」

 林房は質実剛健、政治とも距離を置いている古風な武人である。万が一にも安黒胡に同調することはないだろう。

 「良い判断だ。行ってくれ」

 「父上もお気をつけて。父上が亡くなっては元も子もありませんから」

 源真はその日のうちに吉野から脱出した。源円は吉野に残り、源冬を安黒胡軍を防ぎつつ、源冬を逃がす算段をしなければならなかった。

 

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