浮草の夢~69~
時として戦場における趨勢は、雄大な戦略や巧緻な戦術によって左右されるのではなく、実に些末な事情によって決定づけられることがあった。謂わば小さな錐が大きな氷塊を砕くようなものであり、平水・鵬谷の戦いこそがその最適な範例であった。後に稀代の戦術家と言われるようになる極国の譜天将軍は、
『平水・鵬谷の戦いは戦略的にも戦術的にも全く参考にならない。軍事の教科書に載せるべきではない』
と酷評していた。泉国の丞相にして軍事面でも異才を発揮した甲朱関も、
『小説としては一流の内容だが、軍事的には三流以下』
と冷笑をもって評価していた。
この戦いにおいて些末な事象を作り出したのは鐘孔であった。彼は追撃してくる安黒胡軍に対して反転攻勢を企図していた。そのために父であり全軍の将帥であった鐘欽が亡くなったことを隠した。しかし、人の口に戸口を設けるのは不可能であった。鐘欽の死はすぐに全軍に伝播した。
「どうやら将軍が亡くなったらしい」
鐘欽という歴戦の老将が指揮するからこそ勝利を信じて戦ってきた兵士達からすれば、鐘欽の死はその自信を喪失させることに他ならなかった。全軍の士気は著しく低下していった。
反転攻勢するのであれば鐘孔は鐘欽の死を公表すべきであった。大将の死を公表し、その弔い合戦であることを明確にすれば、鐘欽を慕う将兵は全力をもって安黒胡軍に挑んだであろう。
鐘孔は有能な武人ではあったが、末端の兵士の機微を理解できなかった。そのことが鐘孔の、そして静国にとっての不幸となった。
一方の安黒胡軍の勢いは猛火のようであった。勢いに乗ったということもあるが、平水から出てしまった以上、戻ることはできない。突き進ん敵軍を討ち破るしかなかった。
「兄貴、助かりました」
救出された安義四は兄を目の前にして涙ながらに謝意を述べた。
「俺にそんな言葉は無用だ。それよりも敵は逃げた。追うつもりだが、どうだ?」
「勿論お供します。こうなれば吉野まで辿り着くか、死ぬかのどちらかです」
「その意気やよし!行くぞ!」
安兄弟の熱気は全軍に伝播した。死地を脱し、逆転して攻勢に出た軍隊はほど強いものはない。もはや数の上での劣勢など安黒胡軍の中には存在していなかった。彼らは鐘欽が死んだことも、鐘欽に代わって鐘孔が全軍の士気を執っていることも知らない。ましてや鐘孔軍が反撃をしようとしていることも知らない。それらの要素は奔馬のような安黒胡軍には無用であった。追撃すること二日。安黒胡軍は鐘孔軍に追いついた。
鐘孔は安黒胡軍の追撃には気が付いていた。そのうえでの迎撃態勢を整えようとした。
「敵は兵車の扱いが巧みだ。柵を築き、土塁を高く長城のように作ろう」
鐘孔としては追ってくる敵を完全なる防備で阻止し、攻め疲れたところを反撃するつもりでいた。そのために防御用の柵や土塁を築くことを鐘孔は命じた。それを聞いた諸将は開いた口が塞がらなかった。
『この人は馬鹿か。そんな防備、一日二日で作れるものではないぞ』
諸将の誰しもが思った。いや、戦場経験のある者であるならば最下級の兵卒でも同じことを感じただろう。
「鐘孔将軍、そのようなものを築いている時間ありません。敵がすぐそこまで来ています」
諸将の中の一人が代表して言った。寧ろこの場合、多少の損害を承知で攻めかかるべきだろう。そうなれば単純な数の優劣となり、最終的に鐘孔軍は勝てるはずであった。
「馬鹿なことを言うな。我らはすでに相応の損害を負っている。これ以上の、主上の大事な赤子を死なすわけにはいかない」
「しかし……時間も物資もないのは事実です」
「そこを何とかするのが貴君達の仕事だろう」
この一言が諸将の癇に障ったのは言うまでもない。鐘孔自身は気が付いていないが、緊迫した戦場でなければ剣を抜き鐘孔を斬っていた者もいただろう。諸将は互いに目くばせしながら憤怒をなんとかして押さえ、退出していった。
当然ながら鐘孔軍は防柵や土塁の建設を始める前に安黒胡軍の猛攻に晒された。
「反撃するのだ!」
鐘孔はすぐに反撃を命じた。しかし、柵や土塁を築こうしていた兵士達の手には剣や槍ではなく鍬や木槌が握られていた。それらを投げ捨て、武器を手にする間に安黒胡軍の兵車が突撃してきた。
もともと士気も低い軍である。襲われた将兵達は逃亡するか、そのまま膝をついて安黒胡軍に降った。
「戦う意思のないものは降伏しろ!今でこそ敵対しているが、同じ静国の同胞。降る者は快く迎え入れる。共に主上のために君側の奸を取り除こうではないか!」
安黒胡も積極的に降伏した将兵を受け入れた。明朝に始まった戦闘は昼前に鐘孔軍崩壊という形で終了した。大将である鐘孔は行方知れずとなり、その名が後に世に出ることはなかった。




