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七国春秋  作者: 弥生遼
浮草の夢
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浮草の夢~68~

 すべては鐘欽の思惑通りに進んでいた。後背を襲おうとした安義四軍を逆に背後から襲い、半包囲することに成功した。あとはすり潰すようにして安義四軍を壊滅させるだけである。

 『安黒胡は出てこないだろう』

 鐘欽はそう見ていた。数で劣る安黒胡は、外の味方軍勢を見殺しにしてでも平水を堅守するだろう。冷静な戦略眼を持つ武人であるならば当然そうするであろうし、鐘欽は安黒胡の立場なら迷わず見殺しという選択肢を選んだだろう。安黒胡を自分と同等の武人であると評価していた鐘欽は安黒胡も同じ選択肢を選ぶと信じて疑っていなかった。

 だが、安黒胡は出撃してきた。時として突飛もない事象が思いもよらぬ事態を生むものであり、とりわけ戦場ではその傾向が顕著であった。

 平水から出撃した安黒胡が安義四がいる方向に突き進んだ。安黒胡は知らぬことであったが、実は方向に鐘欽軍の本陣があった。

 「本陣は狙われているぞ!」

 そのことで鐘欽軍は大混乱を起こした。安義四軍を包囲しようとしていた鐘欽軍からすれば、背後から襲われた形となり、混乱はますます濃厚になっていった。

 「落ち着け!敵は少数だ。落ち着いて戦えば敵は物の数ではない」

 本陣は窮地にあった。すでに矢が飛来するところまで敵軍は進出しており、鐘孔が必死になって檄を飛ばしたが、将兵は浮足立つばかりであった。

 「孔、こうなっては敵の勢いを止めることはできんし、味方の混乱を鎮めることはできん。ここは一時撤退して態勢を立て直すぞ」

 「しかし、父上。ここで退いては……」

 「お前は言っただろう。敵は少数だ。態勢を立て直し、野戦において敵を敗ればいい。それだけのことだ」

 退くぞ、と鐘欽は命じた。こうなれば自ら陣頭指揮を取らざるを得なくなった鐘欽は各戦線の将に撤退命令を出した。その手並みは実にあざやかで、鐘欽がいる本陣自らが殿となり、追撃しようとする安黒胡軍を防ぎ続けた。

 深夜になり、ようやく安黒胡軍の追撃を振り切り、態勢を整えようと各部隊の集合を急いだ。しかし、数日経過し、部隊の糾合が終了しても鐘欽軍は動かなかった。大将である鐘欽が病没したのである。


 鐘欽の死は突然であった。だが、鐘欽自身は出征してから体調面がよろしくないことを分っていたし、安黒胡軍から敗走している最中も自らの精気が奪われていくのを感じていた。集合地点に到着した時には高熱を発し、自力で動ける状態ではなかった。

 「私の死を隠し、吉野まで撤退せよ。それが困難な場合は、この場所を堅守し、吉野に救援を求めるのだ。但し、その場合も私が亡くなったことは主上にのみお知らせしろ」

 もはや寝台から起き上がることすらできなくなった鐘欽は鐘孔とわずかな軍幹部を呼んでそう命じた。

 「あと主上に申し上げてくれ。主上と数多戦場を駆け巡ったこと楽しゅうございました。最期に晩節を汚して申し訳ございません」

 明瞭な口調で言ったので小康を得たかと鐘孔達は安心していたのだが、その晩のうちに鐘欽は帰らぬ人となった。源冬の時代において随一の名将と言われた鐘欽からすれば、同じ戦場で死すにしても不本意な形での最期であった。

 鐘欽によって後事を託された鐘孔に悲しむ時間はなかった。鐘孔は父の遺言を速やかに遂行すべきであった。しかし、

 『このまま吉野に撤退していいものか。所詮は父親がいなければ何もできぬ武人よと謗られるだけではないか』

 鐘孔は常に父である鐘欽と比較され、父よりも劣っているという劣等感の中で生きていた。その劣等感を一気に払拭させるのは今しかないのではないか。父がいなくなっただけに、鐘孔はその誘惑に耐えきれなかった。

 「ここで退いては静国の武人として恥じであろう。数の上では我らはまだ勝っている。反転攻勢しよう」

 鐘孔は諸将を招いて宣言した。諸将は唖然とした。彼らからしても一度吉野近くまで撤退すべきだと考えていた。安黒胡軍は騎虎の勢いをもって追撃してくるだろうが、裏を返せば補給線が伸びることを意味し、兵数が少なく目立った味方勢力が今のところない安黒胡軍は窮地に追い込まれる。反撃はそれからでも遅くはなかった。

 「何を言うのだ!そのように消極的では勝てるものも勝てぬではないか!」

 諸将の意見に鐘孔は反発した。軍の序列的には鐘欽が死んだことにより副将である鐘孔が上席となった。鐘孔が命令だと言えば、それに従わざるを得なかった。

 「よし、明朝を待って反転攻勢する。但し、父上が亡くなったことは秘密にする」

 もし漏らした者がおれば極刑だ、と鐘孔は脅すように言った。諸将はため息交じりに承諾するしかなかった。

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