浮草の夢~63~
安黒胡が拠点としているのは鵬谷という静国北部における最大の邑であった。ここには約五千名の兵士が駐屯しており、静国が有する最大級の軍団が存在していた。その最大級の軍団が沸騰していた。
「聞けや、同士諸君!我らと我らの家族は寒さと飢えで苦しむ中、吉野では毎夜毎夜贅沢三昧。しかも頓女のために離宮を建築しようとしている。我らは何のために働いているのだ!吉野にいる特権階級に贅沢させるためではないぞ!」
鵬谷の酒場で一部の兵士達が扇動するように声を荒げていた。本来であるならば不敬罪として取り締まらなければならないのだが、それで兵士達の気が晴れるのであればと安黒胡は放置していた。だが、安黒胡が吉野から帰ってきてからは、その煽りが段々と過激化し、拡大していった。
「不平不満を発散させるつもりで黙認していたが、このままでは吉野によろしくない噂が行ってしまう。やんわりと止めさせるように」
安黒胡は部下にそう命じたが、一向に鎮火する様子がなかったので、過激な発言をしている一部兵士を逮捕せざるを得ない状況になった。
「逮捕は俺の本意ではない。適当に取り調べして釈放してやれ」
安黒胡としては大事にしたくはなかった。だが、取り調べをした兵士の中に、思いもよらぬ人物が潜んでいた。
「藤純?藤純というと、あの東方海賊の頭目か?」
逮捕した兵士の中で首領格の男がいた。その男が自分のことを東方海賊の藤純だと言っているらしい。
「東方海賊は主上によって壊滅したのではないか?」
「壊滅はしましたが、頭目の藤純の死は確認させていません。生きていてもおかしくはない」
「義四。もしその男が本物の藤純であるならば大事になる。俺は謀反人を匿っていたことになるんだぞ」
「そうでしょうな。実は先程会ってきた。あれは本物じゃないかと思っている」
兄貴も会ってみるべきだ、と安義四は言った。
「しかし……」
「兄貴。東方海賊がどういう目に遭ったか知っているだろう。皆殺しだ。一族、皆殺しだったんだぞ。主上は名君なんて言われているが、俺はそれが主上の本性だと思うぞ」
安義四は藤純に会って直に惨劇について聞かされたのだろう。怒りに顔を滲ませながらも、瞳には涙をためていた。どちらかといえば武骨な弟がそのような表情を兄に見せるのは初めてであった。
「ひとまず会おうか……」
会って藤純本人か確かめたい。確かめたうえで追い出してやる。この時の安黒胡はそう考えていた。
藤純を名乗る男は兵舎の一角で軟禁されていた。牢に繋がなかったのは安黒胡の配慮である。
小屋に入り、藤純を名乗る男を一目見た時、安黒胡は確信めいたものを感じた。この男、本物の藤純である。まだ若い男の顔をしているが、瞳の光には力強さがあるものの深い濁りがあり、相当の苦難を味わってきた男であると直感させた。
「お前、藤純だな」
「安将軍。ここで何をしている?俺が藤純であるかどうかを誰何している場合ではないだろう。今すぐにでも兵を挙げ、静国の正義を実現すべきだろう」
この男は捕らわれている。安黒胡は暗い気持ちになった。捕らわれているのは妄執だ。こういう男の傍にいてはならない。今すぐでも踵を返したかったが、足が動かなかった。
「正義……。海賊であった男がいうことか?」
「確かに俺は海賊だった。随分とあくどいこともしてきた。だが、俺達はもともとこの国の先住民だ。それが後から入ってきた奴らによって迫害されて生きる場所が無くなってしまった。だから海賊にならざるを得なかった。それは斗桀も同じではないか」
斗桀出身の安黒胡には耳の痛い言葉であった。安黒胡の言うとおり代々静公の政治は先住民に対して苛烈であった。斗桀が未だに跳梁しているのも源冬が先住民に妥協しないからだ。
「俺は主上の忠臣だ。主上も俺のことを信頼してくれている。俺は主上のことを裏切れない」
「将軍が静公の忠臣であるならば、尚のこと奸臣を排除して静公の政治を正すべきだろう」
将軍ならばできる、と藤純は迫った。
安黒胡の心は大きく揺れていた。安黒胡の源冬への忠誠心が強ければ強いほど、藤純の言葉が身に沁みた。源冬のためにもそうせねばならぬ。源冬を正すことができるのは自分しかいない。安黒胡はそういう気分になっていった。だが、決断するまでには至らず、藤純についても引き続き軟禁するに留めた。




