浮草の夢~61~
離宮建設の徴用で最も深刻な打撃を受けたのは農村部であった。単純に農作業の働き手を奪われることになり、天候不順がなかったのに全ての作物において収穫高が前年を大きく割れこむことになった。このことは食糧、特に米や麦といった穀物の価格を急騰させただけではなく、大きな社会不安の元となった。
さらにいえば、度重なる兵役と今回の労役が国家の社会活動に必要な働き手が失われ、健全な国家運営に支障をきたした。特に治安を維持する警察組織や自警団の人員不足が著しく、犯罪行為が多発していった。とりわけ貧困層が多い北部では飢えと盗賊団による襲撃が重なり、千人単位の邑で住民が全滅するという事態も発生した。
静国の各地から窮状を訴える悲鳴の報告が吉野にもたらされた。それらの報告はすべて丞相である頓庸のもとに集められたが、頓庸は黙殺した。
この状況で頓庸ができることはただひとつ。離宮の建設をやめ、徴発した人員を労役から解放することであった。そうすれば静国が被る被害は最小限にすることができただろう。頓庸もそんなことぐらいは分っていた。しかし、
『今更やめられるか!』
というのが頓庸の考えであった。すでに離宮の建設は始まり、国の内外に死罪を発注している。ある意味で中原中の耳目がこの離宮建設に集まっている。今更ながらにやめることは、国家の威信に傷がつくことであり、頓庸の名声にも翳りを生じさせることになる。やめるわけにはいかなかった。
「離宮の建設は主上の勅命によって行われている。これに反論を唱える者は即ち謀反人だ」
頓庸は極論をもって反論を封じさせた。この時の閣僚も官吏も頓庸の息のかかった者ばかりで、正面切って頓庸に挑むような勇気のある者は誰一人としていなかった。
この時期、頓庸の横暴に対抗できる人物が一人だけいた。太子源円である。
源円は太子である当時に、吉野唯一の軍事力である近衛兵団の長でもある。源円がその気になれば、頓庸を実力で排除することができる。だが、これまでのところ源円は沈黙を守っている。
『下手に事を起こし、失敗でもすれば太子の地位を追われる』
頓庸が丞相となって静国の政治を掌握するようになっても国主はあくまでも源冬である。源冬が頓庸を引き立てた以上、これを排除すれば源冬は激怒して、廃嫡するかもしれない。その可能性が少しでもある以上、源円としては慎重にならざるを得なかった。
いつもこういう時に焚き付ける源真も静かにしている。何か考えがあるのかもしれないが、今は妙なことを起こして欲しくなかった。
『私が波風立てぬともいずれ……』
その時まで待ち、源冬の目の曇りが晴れるのを待つしかない。
源円のいう波風は意外に早く、意外なところから発生した。北方駐屯軍の安黒胡が吉野に上ってきたのである。今回は召喚されたわけではなく、自発的な上京であった。
安黒胡は上京する度に多くの軍勢を従え、豊富で煌びやかな献上品を持参してくるのだが、今回は軍勢も少なく、献上品についてはひとつも持参していなかった。
「あの羽振りの良い安黒胡がどうしたことか?」
吉野宮の人々は不審に思った。頓庸も安黒胡の行動が気がかりであったが、相手が源冬のお気に入りで左中将という地位である以上、会わぬわけにはいかなかった。
源冬と安黒胡の対面は朝堂で行われた。そこには頓庸を始めとした閣僚も参加した。
「安将軍、日々の精勤、ご苦労である。此度はいかなる理由の上京かな」
久しぶりに安黒胡の顔が見られて源冬は嬉しそうであった。しかし、安黒胡は悲し気な表情で、申し上げたいことがあるます、と切り出した。
「主上。現在、我が国の北部では食糧が欠乏し、毎日のように餓死者が出ております。それだけではなく、斗桀が再び跳梁しており、数々の邑が襲われ、無辜の人々が殺されております。我が軍が討伐にあたっておりますが、人員、装備、食糧いずれも十分とは言えません」
安黒胡はここで言葉を切った。まるで源冬の言葉を待つように沈黙していた。
『いらぬことを……』
頓庸は苦々しく思った。安黒胡が言ったことは事実であり、頓庸も知ってはいた。しかし、源冬には報告をしていなかった。
頓庸は源冬の様子を窺った。源冬は木石のように黙り込み、じっと安黒胡を見つめていた。
「主上。どうか離宮の建設をお止めになり、臣民を労役から解放なさってください。そうすれば軍は拡充でき、農作業の担い手も元通りとなり、飢饉も克服できましょう」
安黒胡の奏上は正論であった。正論であるがために頓庸は気が気でなかった。ここで源冬が安黒胡の言葉を容れれば、頓庸の政治生命は終わる。何か反論すべきかと思っていると、源冬が先に口を開いた。
「離宮は予定通り建築する。左将軍が口を挟むな」
源冬はそれだけを言って席を立った。主上、と安黒胡は叫んだが、源冬は立ち止まらなかった。頓庸は密かに胸をなでおろしつつも、安黒胡をどうにかせねばなるまいと思った。




