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七国春秋  作者: 弥生遼
黄昏の泉
68/958

黄昏の泉~68~

 湯瑛軍を敗退させた樹弘軍は、追撃することなくそのまま戦場に残った。その後の樹弘の去就に注目が集まった。そのまま泉冬の相宗如を攻めるのか、それとも翼公と戦うのか。はたまた一度貴輝へと帰還するのか。しかし、樹弘の取った行動は、いずれでもなかった。

 「翼公に会談を申し込む。供回りは少人数でいい」

 樹弘はわずか十名程度の兵を連れて悠然と出発した。


 一方の翼公は樹弘からの会談申し入れを受けて顔をしかめた。

 『しまった……!』

 すでに翼公は樹弘軍と湯瑛軍の戦いの結果を知っていた。樹弘軍の迅速かつ鮮やかな勝利に舌を巻いていて、さてどうしたものかと思案をしているうちに、向こうから接触をしてきたのである。その対応の早さにも油断ならざる相手であるという認識を持つようになった。

 「いかがなさいますか?」

 胡旦が聞いた。言わずとも分かることをわざわざ聞いてくるのが胡旦という男の意地悪いところであった。

 「相手は真主だ。会わぬわけにはいかないだろう」

 もしここで会談を拒否すれば、失礼の謗りを受けるのは翼公になる。一国の国主としての体面を考えれば、拒否することはできなかった。

 『先手先手を行かれている』

 よほど良い政治的参謀がいるのか、と翼公は思った。樹弘の経歴を考えれば、そういう高度な政治的駆け引きなど習得しているとは思えなかった。

 二日後、樹弘はわずかな供回りを連れて翼公の陣営を尋ねてきた。翼公は自ら出迎えた。馬車から降りてきた樹弘は、どこにでもいるような普通の少年のようであった。しかし、その小さな体躯から滲み出る威厳は確かに感じられた。

 「これは翼公、お初にお目にかかります。樹弘と申します」

 樹弘は丁寧に辞儀をした。翼公としてもそれに倣わないといけなかった。

 「これはこれは……。泉国に真主が誕生し、まことに大慶と言うべきであろう。余が翼公、楽乗である」

 と言ってしまった時点で、翼公は樹弘が泉国の真主と認めたことになる。樹弘がそれほどの人物ではないと見極めたら、即座に泉国の侵略を続けようと考えていた翼公としては、ここでその野望を挫かれた形となった。

 「どうですかな?中で茶でも一杯献じようと思うのだが……」

 「お気持ちはありがたいのですが、急ぎます故、ご辞退申し上げます。翼公におかれましても、泉国の内乱は私が収めますので、どうぞ安んじてお帰りください」

 『言いやがる……』

 最後の一言は、流石の翼公も感嘆せざるを得なかった。樹弘がそのように言うことで、翼公が泉国に攻め入ったのも、泉国の内乱を終息させるためだという大義が成立するのである。しかも、樹弘が乱を収束させると宣言した以上、翼公は引かざるを得なくなる。樹弘はわずかな言葉だけで、翼公の顔を立てた上、撤収させる口実を作ってくれたのである。

 『やはりよほどの政治参謀がいるのか。それとも……』

 これが樹弘の素質だとすれば、末恐ろしいものがあると翼公は背筋に汗をかいた。

 「左様か。ならば真主同士、盟約ぐらいは交わすとしよう。胡旦、神器を取って参れ」

 胡旦は一瞬と惑ったような顔をしたが、すぐに神器を取ってきた。翼国の神器は『破天の弓』。この弓で天に向かって矢を放つと、天が破れると言われていた。

 翼公は矢を番えず弦を引いた。びんという音が響いて、これを三度繰り返した。翼国で真主が即位した時に行う祝いの儀式であった。

 「泉公、剣を抜きたまえ。そして我が弓と合わせてみよ」

 樹弘が泉姫の剣を掲げて、翼公の破天の弓と触れた。甲高い金属音がわずかにした。

 「これぞ神器同士の共鳴。真主同士の盟約はこうして行う」

 実のところ、樹弘は静公と神器をあわせる盟約をしていなかった。それだけに自ら神器の盟約を持ち出してきた翼公の対応は破格といえた。

 「天に誓おう。我が翼は真主がいる限り泉国と友誼を結ぼう」

 「では、私も天に誓います。我が泉は翼国に真主がある限り、友誼を結びましょう」

 樹弘と翼公の会談はわずか半刻もなかった。しかし、歴史的な意義の大きさは計り知れなかった。


 翼国からの撤兵を命じた翼公は、終始不機嫌であった。一言も発せず、馬車から泉国の風景を眺めていた。

 「父上、ご不満ならば、盟約などしなければよかったのでは?」

 馬車には嫡男である楽清が乗っていた。様々なことを見聞させるために連れてきたのだが、あまり勉強にはなっていなかったようだ。

 「どうして余が盟約までして撤兵したか、お前には分からんのか?」

 「いえ、一向に……」

 楽清は恥じるように俯いた。凡庸ではあるが、自らの非才さを自覚しているだけましであると翼公は思っていた。

 『凡庸であることは罪ではないが、世が乱れた時にどうなるかだな……』

 現在、翼国は条国と敵対関係にある。決して平穏な状況にあるとは言い難く、それは中原そのものについても同様のことだと言えた。楽清が国主となった時にどのような情勢になっているか定かではないが、内にも外にも混乱を抱えた世の中で楽清がうまく国政の舵を取っているか疑問ではあった。

 「もし泉公が泉春に兵を進めれば、相房は民衆を無理にでも守兵としただろう。それを避けるために泉公は手薄な泉春に向かわず、湯瑛軍を討伐した。これはまさに仁者の戦だ。その仁者を相手にすれば、たとえ勝ったとしても余への批判は避けられない。負ければなおさらだ」

 「泉公はそこまで考えていたのか……」

 「間もなく泉公は相房を討ち、泉国の内乱を鎮めるだろう。余は国を出て二十年余りの歳月をかけて国主となった。しかし泉公は市井より出て二年余りで国主になろうとしている。この差は実力と徳の差だ。おそらくは余は泉公には勝てんよ」

 「父上にしては弱気な……」

 楽清が言うのを無視して翼公は再び窓の外に目を転じた。この国はまもなく平和で豊かな国になるだろう。樹弘という少年はそれだけの器量を持ち合わせていた。

 『一国だけではあるまい。あるいは中原の覇者となるやもしれん』

 そう夢想して翼公はやめた。翼公自身、自らが覇者となる野望を捨ててはいなかった。

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