浮草の夢~56~
源冬は悩んでいた。
このところ愛妾である秋桜は塞ぎがちになっていた。源冬と顔を合わせれば、
「今すぐにでも私と代をここから解き放ってください」
と挨拶のように言ってくるのであった。清夫人に命を狙われていたことが、秋桜に大きな影を落としていた。
「そのように言うでない。離宮ができれば一緒に行こう。そうすればそなたの気鬱も治る」
源冬は秋桜の美しい黒髪を撫でながら何度も宥めた。だが、源冬が提案した離宮の建設は閣僚達の反対にあって頓挫している。仮に建設が始まったところで数年かかるだろう。
「このまま吉野宮で生きていても、主上がいなくなれば私も代も行き場を失います。そうならぬうちにどこか静かな場所で暮らすことをお許しください」
最近ではそのような言い方をするようになってきた。確かに、今のままでは秋桜の地位は不安定であり、源冬が死ねばどのようになるか不安に思うのも無理なかった。特に源代は男児であるがために、女児のようにどこかへ嫁に出すということもできない。
『秋桜を妃にすべきか……』
源冬はそう考えつつも、すぐに口には出さなかった。これについても閣僚に諮れば、猛反対を食らうだろう。
「どうすべきか……」
こういう時、相談に乗れるのは高薛しかいなかった。源冬は私室で高薛と二人きりになると、早速切り出した。
「さてさて、それは……」
難問だ、と高薛は心の内で断定した。源冬が寵姫を囲うのは内向きのことであるため閣僚の同意を得る必要はない。しかし、正妃となると別である。正妃は国母であり、国家の政治にも関わってくる地位となる。源冬の独断で決めれぬことであり、高薛としても迂闊に意見を言えることではなかった。
『それにこの問題については私は口を差し挟むべきか?』
これまで高薛は源冬から政治的な問題や後宮における悩み事を聞き、解決の一助となる意見を述べてきた。あくまでも高薛は宦官であり、この場でのおける助言は所詮助言でしかない。源冬はこれを採用することもあれば不採用とすることもあった。しかし、秋桜が高薛の手によって後宮の寵姫となり、高薛が関わることで清夫人は失脚し亡くなった。ここで高薛が秋桜を正妃に押せば、高薛は自己の権勢のために過去の行いをしてきたことになる。後世の評価を気にしているわけではないが、我が人生の岐路となりそうな気がして高薛は慎重にならざるを得なかった。
「秋桜はお前が連れてきたのだぞ。悩む秋桜を憐れと思わぬか?」
そう言われると高薛も痛かった。確かに秋桜の人生の変転の切っ掛けを作ったのは高薛なのである。座視もできなかった。
「是非とも頓庸殿とお諮りください」
高薛のこの発言はその後の静国の歴史を変えたと言っても良かった。同時に高薛の人生すらも変えてしまった。
高薛という宦官は、源冬から政治向きの相談を受けた時も、決して自分の利益となる様な言動は謹んで来た。しかし、今回の助言は、どう転んだとしても高薛の利益になってしまう。高薛自身にその意図がなかったとしても、結果的に高薛の地位を高めるようなってしまった。
「なるほど、頓庸よな。確かに若いながら見どころのある男だ。だが、あの閣僚共に対抗できようか」
源冬は静国の国主である。閣僚を任命するのも罷免するのも国主の権限で行うことができた。しかし、長年に渡って国家の要職を占めてきた門閥の地力には侮れぬものがある。
「閣僚共が徒党を組んで反抗してくるかもしれんし、官吏の中には奴らに与する者もおるだろう。そうなれば国家の運営に深刻な状態となってしまう」
「なればこそ、主上のお力が必要なのです」
高薛は周囲に目配せして源冬の耳に口を寄せた。後に高薛は源冬を誤らせた佞臣として怨嗟の的となった。それは単に秋桜を寵姫にしたというばかりではなく、悪魔的な陰謀によって頓庸を政治的な表舞台に引き上げてしまったことにある。
「なるほど。しかし、それには太子の力が必要となるが……」
「すぐに円様のお力を求めない方がよろしいでしょう。円様は秋桜を妃とすることを良しととしないでしょう。太子に御協力いただくのは最終段階です」
源円からすれば秋桜が妃となれば、太子の座を源代に奪われるかもしれないと思うであろう。進んで協力するとは思えなかった。否が応でも協力させるようにしなければならなかった。
「余は円を太子から外すつもりはないぞ」
「主上がそうお考えでも、円様本人や周囲がそう思わないでしょう。なので、秋桜様を妃とされても太子については円様のままであることを宣言なさってください。同時に円様に代様の身柄の安全を保障するようにお命じください。そうすれば主上のお悩みはすべて解決されます」
「分かった。その通りにするだろう。余にとっての知恵袋とは高薛のことだな」
源冬は満足そうに何度も頷いた。




