浮草の夢~55~
こうして後宮で発生した一大事件は一応の終局を見たが、秋桜に大きな精神的打撃を与えることになった。後世の歴史家はこの事件を契機に秋桜が精神に異常をきたし、人格すらも変わってしまったと分析したが、秋桜当人はただ、
『もう吉野宮にいたくない!』
と本気で思うようになり、かつての頓家の領地で源代と二人で静かに暮らすことを望むようになった。
「主上、私のことを愛してくださるのなら、私と代を吉野から解き放ち、頓家の領地で健やかに暮らすことをお許しください」
秋桜は源冬に抱かれる度にそう懇願した。
「そんなことを申してくれるな。お前がいなければ、余も吉野にいられなくなる」
源冬は秋桜を優しく愛撫して宥めた。ただ宥めるだけでは秋桜の気が晴れぬと分る源冬は、
「そうじゃ、そうじゃ。頓家の近くに風光明媚な湖があったな。そこにお前の離宮を建設しよう。そこでしばらく静養すれば、お前の鬱屈も晴れるであろう」
源冬は勅命をもって頓家領地近くにあった湖畔に秋桜のための離宮を建設するように命じた。これには斑諸達閣僚が挙って反対した。
「今の我が国の財政状況は先の条国との戦闘や斗桀の鎮圧によって多大なる戦費を浪費致しました。経済も疲弊しております。とても離宮を建築するほどの余裕がありません」
冗談ではない、と斑諸などは思った。斑諸が言ったことは嘘でも何でもなく、度重なる戦が国費を圧迫していた。これに加え社会的な人材不足も露呈し、経済も鈍化していた。
「例の事件で秋桜は精神的に疲れておるのだ。それを癒すために故郷で静養させてやりたい」
源冬は真面目に反論したが、斑諸達からすれば知ったことではなかった。
「ここで離宮の建築となれば、金銭だけではなく労役のための人員も必要となってきます。我が国では先の戦にとって貴重な働き手が失われたか、傷病のため動けない状況にあります。とても国民に労役を課すようなことはできません」
斑諸の言葉はあまりにも正論であった。しかし、秋桜を溺愛し、往年のような冷静な思考を失ってしまった源冬は、これだけの言葉で激昂した。
「使えぬ閣僚どもよ!」
源冬は玉座の肘掛けを大きく叩いた。顔を真っ赤にし、鬼の形相で閣僚達を睨みつけた。
「貴様らは余の寵姫がどうなってもよいというのか!貴様らがそのようであるから、秋桜は命を狙われたのだ!」
閣僚達は驚き唖然とした。源冬がこのようなことで激怒するとは思っていなかったのだ。彼らが知る源冬とは家臣の言うことをよく聞き、沈着冷静な思考をする聡明な君主であったはずなのに、目の前にいる老人は寵姫によって思考を狂わされているだけであった。
『主上も年を取られた……』
斑諸達はそれを老齢による短気であると見ていた。事実、そのような傾向もあったが、秋桜への愛が深いあまりに盲目となっていた。もし源冬が田舎の隠居爺なら笑って済むことではあったが、国家君主として大問題であった。
「主上、冷静になりお考え下さい」
斑諸は源冬のためにも再考を促した。だが、源冬は取り合わなかった。
「うるさい!貴様らの考えは分かった。余のためにならぬ家臣共だ。覚えておけ!」
源冬は鬼の形相のまま退出していった。流石に斑諸達も気まずさを感じた。
源冬と閣僚達の軋轢。これを好機と捉えたのは頓庸であった。吉野宮における若手官吏の中心人物というべき頓庸は、日頃から仲間の官吏達と語り合っていた。
「見てみるがいい、我が国の閣僚達を。いずれも老齢というべき者達ばかりではないか。他国では我らと同じぐらいの若手が閣僚の一角を占め、大いに活躍している。条国を見よ。閣僚の半分は我らのような若手だ。敵ながら活力に満ちている状況は羨望すべきことではないか。我が国でも若手による政治を行うべきではないか」
頓庸はそのように言って現状に不満のある若手官吏を惹き付けた。当然ながらこのような動きを斑諸達旧来の閣僚達は警戒すべきであった。しかし、
「頓庸如きに何ができよう」
斑諸などはそう思っており、他の閣僚達も同様の気分を有していた。彼らは代々、静国の門閥として閣僚の地位を受け継いできた。大した努力もなく、ただ血筋だけで国家の要職が転がり込んできた彼らかすれば、新興勢力である頓庸達がいくら声高に叫んだところで長い歴史で培われてきた自分達の地位が脅かされることはないと信じて疑っていなかった。
「もしあのような若僧共が閣僚になれば静国は滅びる。我ら門閥が結束してこそ、静国は安泰でいられるのだ」
斑諸は他の閣僚達と語らし、頓庸達若手のことをせせら笑っていた。その驕りが彼らの滅亡を招くのにそれほどの時間はかからなかった。




