浮草の夢~46~
一方で最前線は膠着状態になっていた。条国軍側はほぼ全軍の集結を終え、静国軍に総攻撃をしかけているが、未だに戦線を突破できずにいた。
「安が帰って来ないか……引き際だな」
もし条安が奇襲に成功したならば、今頃には戦勝の報告が寄せられ、敵軍にも動揺があるだろう。条安の奇襲は失敗したと見るべきだろう。そう判断した条康は撤退を決意した。ここで勝利すれば一気に吉野まで攻め上る気でいたが、引き際を誤るわけにはいかなかった。
『すでに得た城を餌にして金銭を取るか、領土を割譲させよう。今回はそれで十分としよう』
条康はこれまでの戦勝に固執しなかった。在位の間に静国を攻める機会などまたあるであろう。
「明朝、攻勢をかけてから順次撤収する。段取りを間違うなよ」
撤退する後背を襲われては元も子もない。一大攻勢をかけて敵が怯んだ隙に撤退することにした。
翌朝、条国軍は総攻撃に出た。静国軍は各戦線において守勢に立たされた。
「凌ぎ切れ!」
もはや源冬の部隊をあてにしていない鐘欽は、独自の軍勢だけで勝つには敵が疲弊した後に反撃するしかないと考えていた。
「しかし、耐えきれるかどうか……」
それだけが心配であった。ともかくも鐘欽は穴倉に籠るようにして敵の攻撃をやり過ごすしかなかった。だが、思わぬ援軍を鐘欽は得ることになった。
「秋桜姫のいる部隊が右翼に現れただと?」
「はい。敵の奇襲部隊に見つかり、逃げてきたようです」
鐘欽は部下からの報告にやや焦った。その報告が本当であれば敵の奇襲部隊がそのさらに後背に存在しているということになる。ここで敵に後背を攻められれば、全軍崩壊の危機となってしまう。
「奇襲部隊の所在は?」
「それが……どうやら敵の奇襲部隊が主上の軍勢と戦っているようです」
その報告はさらに鐘欽を混乱させた。全体の戦況がどうにも掴めない。
『ということは後背の心配をする必要がないのか……』
鐘欽はひとまず安堵した。源冬には散々迷惑かけられたのだから、ここで存分に働いてもらおう。
「よし!姫様の部隊を接収しろ」
わずかであっても戦力の補強は心強い。後は敵の攻勢を凌ぐだけであった。
夕刻、条国軍は攻勢をやめ、撤収していった。鐘欽は追撃しようとしたが、敵の大攻勢をなんとか凌いだ各将兵にはその気力も体力も残されていなかった。
「敵が撤退するために攻勢をかけてきたのだとすれば、今の条公は一筋縄でいかん傑物だ。侮れん相手になるだろう」
鐘欽には悔しさがあったが、羨ましさもあった。条康はまだ若い君主で軍事的な才幹も悪くない。それに対して源冬はすでに老いがあり、その老いのためだろうか戦場での判断がどうにも危うい。対照的な君主となっていた。
『老いのための過誤であればまだいいが、頓女に溺れて目が眩んだとなれば我が国の行く末も見えている』
言葉にこそしないが、鐘欽は源冬に失望していた。将軍のしての自分の役目もそう長くはないだろうと感じていた。
条国が撤退したのだから勝利は静国のものとなっただろう。だが、この勝利は誰の働きによって起因するのかと言えば、静国の中には誰もいなかった。
鐘欽が戦勝を報告するために源冬のもとを訪ねてきたが、源冬は不機嫌そのものであった。
鐘欽の働きについては不満が残る。自分と合流する前に敵と開戦したこともそうであるし、敵を追撃しなかったことにも不満があった。一方で鐘欽に全軍の指揮を委ねたのは源冬本人であるし、意固地になって本隊との合流を急がなかったのも自分の責任である。
しかし、秋桜を守護していた部隊がどうか。秋桜を危機に晒しただけではなく、自分に何の連絡を寄こしてこなかった。それには部隊を守備する岳炎なりの判断もあったが、そのような理屈が曇るほどに源冬は秋桜が危機になったことに怒りを感じていた。
「我が軍はよくやったと言うべきだが、余の寵姫を敵襲の危機に晒したことをよろしからず。またそのことを余に報告しなかったこともよろしからず。きっと沙汰があるだろう」
招集された岳炎は呼ばれた以上は何かあるだろうと予感していたのか、反論せずに項垂れていた。
「主上。お待ちください。戦場における臨機の判断は部隊の長にあります。臣からすれば岳炎の判断は適切であったと思います」
「黙れ!」
鐘欽が溜まりかねて擁護すると、源冬は嚇怒した。いつものならここで青ざめ、自説を引っ込めるところだが、源冬に対して思う所のある鐘欽は寧ろ顔を赤くした。
「主上!それはいくらなんでも……」
「何を!」
源冬が椅子を蹴った。膝をついていた鐘欽も立ち上がった。一触即発、といった感じであったが、そこへ源冬の傍に控えていた高薛が両者の間に入った。
「主上、お待ちください。宦官である私が口を差し挟むのは僭越なことでございますが、あの状況で岳炎殿が判断を下さなければ、我々は敵軍に八つ裂きにされていたでしょう。また、岳炎殿の作戦については秋桜姫も賛同し、積極的に協力してくれました。そのことについて是非御一考ください」
宦官がである自分がでてくること。そして秋桜の名前を出すことはある意味で禁じ手であり、武人の矜持を傷つけることであった。それでもせねばらなぬ、と高薛は咄嗟に判断した。
「……秋桜に免じて、この度を許す」
ばつの悪そうな顔をした源冬は、それだけを言って鐘欽と岳炎を去らせた。岳炎はほっとした顔をしていたが、鐘欽の顔は苦々しくゆがんでいた。




