浮草の夢~45~
秋桜がいる最後方部隊を指揮している岳炎は、条国軍の奇襲部隊を発見すると北上するようにして撤退した。その手際は混沌とした史平の戦いにおいてほぼ唯一といって良いほど秩序的に行われた軍事行動であった。奇襲をしようとしていた条安は、この撤退にまるで気が付いておらず、標的を完全に見失ってしまった。
「気取られたか!この俺が全く気が付かないとは……敵ながら見事なものよ」
条安は岳炎の鮮やかな撤退行動を称賛しつつも、諦めることはしなかった。
『逃げた、ということは敵にとってはやはり急所なのだ。あるいは静公がいるかもしれない』
そう判断した条安は引き続いて敵影を探すことにした。
秋桜達はひとまず危機を脱することができた。これは部隊を指揮していた岳炎の判断と手腕によるところが大きかったが、ひとつだけまずいことをした。北上して撤退することを源冬に知らせなかったことである。岳炎としては知らせることで、源冬に無用な心配をさせないためであったが、これがさらなる錯誤を招いた。
「秋桜が行方不明になっただと!」
夕刻になり、秋桜のもとへ行こうとした源冬は、秋桜のいる部隊が見当たらなくなったという報せを受けて真っ青になり、そして激怒した。
「秋桜を見つけ出せ!」
その怒号は天幕の外に聞こえてくるほどであった。その落雷のような怒声を多くの将兵が聞き、心底から震えると同時にため息を漏らした。
『戦の趨勢よりも寵姫のことが大切なのか』
後のことを思えば、源冬が秋桜を寵愛するあまりに延伸や将兵の心が離れ、静国最大級の内乱となる種子はこの時ぐらいから蒔かれたと言っていいかもしれない。
源冬に雷を落とされた諸将は迷った。いくら主君の命令とはいえ、戦地で寵姫の存在を探すなど馬鹿げた話である。さてどうしたものか、と互いに目を合わせるだけであった。
『爺様も妙な遠慮をして頓女を傍においておけばこんなことにはならなかったのだ』
困惑する諸将の中、源真はひとり冷ややかな思考をもって成り行きを見守っていた。源真は思うところがあるのだが、多少意地悪な気持ちをもって黙っていた。
そこへ腹心の虞岐式が静かに入ってきて源真に耳打ちした。数度頷いた源真は発言した。
「主上。秋桜姫のいる部隊は敵の奇襲部隊を見つけ北へ逃れたようです」
源真の言葉を聞いて源冬は怒りをやや鎮めた。
「それは本当か?」
「本当です。斥候が我が部隊の後方に敵影を発見しております」
「では、何故岳炎はそのことを余に知らせんのだ」
「そのような時間がなかったか、敵に我らの存在を気付かせないようにしたかでしょう。どちらにしろ良き判断かと思われます」
他の将が言うと源冬はさらに嚇怒したかもしれない。しかし、源冬は聡明と言われているこの嫡孫を買っていたので、聞く耳を持つようになった。
「で、真はどうすればいいと思うか?」
「敵の奇襲部隊を逆撃いたしましょう。そうすれば秋桜姫も安全となりましょう」
秋桜の名前がでれば源冬としてもその作戦に乗らねばならなかった。源冬は即座に出撃を命じた。
源真。後に静国三賢公のひとりに数えられ、その三人の中でも最も賢明と呼ばれるようになる男は、この時まだ十七歳。初陣は十五歳の時で、戦場での経験はそれほど多くない。
源真は国主となってからは、
「戦は苦手だ」
と口癖のように言い、必要以上の戦をすることはなかったが、まだ若いこの時は血気盛んであった。
「少数精鋭でいい。後は主上をお守りするんだ」
源真は総勢百名程度の部隊を編成し、敵奇襲部隊に逆奇襲をしかけた。この源真の判断は史平の戦いの趨勢を決定づけた。
秋桜のいる部隊を追っていた条安は、源真の奇襲部隊にまるで気が付かず、後背を突かれた。
「敵襲だと!くそっ!」
猛将の条安も思わぬ奇襲に浮足立った。暫し乱戦となったが、兵数の少ない源真が押し切った。
「なかなかやりおる敵だわ!
条安は夜陰に紛れて撤退することにした。源真としては条安の撤退をしてよしとしてもよかったが、追撃を決意した。
「敵は逃げだぞ。追って覆滅して、この戦いの勝敗を決するぞ!」
戦は苦手、と言ってはいるが、源真の戦術家としての才幹はまずくなかった。源真の言葉通り、この追撃こそが史平の戦いにおける静国の勝利を呼ぶことになった。




