浮草の夢~40~
秋桜にとって慶事が続いた。源代を生んだ翌年、吉野の学舎で学んでいた弟の頓庸が卒業し、官吏として登用されたのである。
元来、吉野宮に出仕する官吏であったとしても後宮に出入りすることは勿論、夫人や寵姫に直接接することができない。しかし、源冬による特別な計らいと血のつながった身内ということもあり、秋桜と頓庸は対面することができた。
「庸!」
秋桜は表宮の一角で弟と再会した。秋桜が琶を出て約十年ぶりのことであった。
「姉上!」
頓庸は見間違えるほどに成長していた。身長などはすでに秋桜の越しており、顔つきも体つきもすっかりと大人になっていた。
「頓庸は学舎では優秀な成績を修めたという。官吏の登用試験も一回で合格した。この先楽しみな官吏よ」
源冬も秋桜の実弟ということで対面の場に居合わせることにした。新任の官吏が私的ながらも国主と対面できるというには異例のことであった。
「お褒めに預かり光栄でございます」
頓庸は源冬の方に向き直り、丁寧に挨拶をした。源冬を前にしても物怖じする様子もなく、如才なく振舞っていた。
「これよりは頻繁にというわけにはいかないが、対面できる機会は設けよう」
源冬はここでも秋桜に度量の大きなところを見せた。秋桜は涙を流して喜んで礼を言った。秋桜の喜びように源冬は満足していた。
頓庸が官吏となったこの年、条国が突如として攻め込んできた。条国とは長年敵対関係にありながらも、近年では大規模な戦闘が行われてこなかっただけに、不意打ちに等しい攻勢であった。
条国軍が国境を侵してきたという一報が吉野に届いた時は、当初は年次挨拶のような小規模な威力偵察と思われていたが、すぐに本格的な大攻勢であると判明し、吉野宮は条国討つべしという意見で沸騰していた。
これまでの源冬であったのなら条国が攻めてきたと知ればすぐ様、
『余自ら出師して条国を討たん!』
と息巻いて延臣達を慌てさせるのだが、この時の源冬は静かに閣僚達の議論を見守っていた。
『主上も落ち着かれた』
そう感じ取る者がいる一方で、
『どうにも今の主上には覇気がない』
と憂慮している者もいた。後者には特に武人が多く、鐘欽などはその筆頭であった。
「この際、主上には申し上げたい。臣はかねてより条国討つべしと進言して参りました。しかし、主上はお取り上げいただけず、こうして条国の侵攻を許したのです」
鐘欽は阿る様な臣ではない。言いたいことをはっきりと言う直諌の臣であった。他の閣僚達は源冬が激怒しないかどうかはらはらとして成り行きを見守っていた。
閣僚達の心配をよそに、源冬は顔色一つ変えず黙り込んでいた。源冬には葛藤があった。
『吉野を離れたくない』
という思いが第一にあった。当然それは秋桜の傍を片時も離れたくないというものであり、流石にそれをはっきりと口にするわけにはいかなかった。
一方で鐘欽のいうとおり、条国の侵攻を許したのは自らの落ち度だと源冬は認めていた。だから自ら将兵を率いて出師したい。しかし、秋桜の傍を離れたくない。そのせめぎ合いの中に源冬はいた。
「主上!すでに吉野近郊には一万余兵が集結し、主上の号令を今や今やと待ちわびております。ぜひ一言頂戴賜りたい」
鐘欽は源冬の葛藤などまるで気付かぬ様子で熱弁を振るった。鐘欽の言葉は尚武の志を持つ源冬の心を確かに打っていた。
「将軍の言うとおりであろう。しかし、今一晩考えたい」
源冬はそうい言って席を立った。こうなれば源冬は出師するだろう。一晩待てというにもきっと作戦を考えるためであろう。鐘欽はそのように思い、満足そうに退席する源冬を見送った。
朝議を終え、奥宮に戻った源冬は高薛を呼んだ。
「閣僚共は余の出師を願い出ておる。しかし、余はどうしても秋桜の傍を離れたくない。どうすればよいか?」
このような相談を源冬ができるのはこの世で高薛ただ一人であった。高薛もそのような質問に真面目に考え、的確な回答を出すことができる唯一の臣であった。
「単純な話でございましょう。秋桜姫をお連れすればいいのです」
「そのようなことは分かっている。しかし、余はこれまで戦地に女を連れて行かないことを矜持としていた。それを今になって破れば、将兵はどう思うであろう。それに秋桜を危険な戦地に連れていくのも……」
「確かに主上はこれまで女性を戦場にお連れすることはありませんでした。しかし、歴代の静公は行っていたことであり、主上がなさっても非難されるようなことはありますまい。それに主上が戦地に出られましたら、必勝は確実。どうして戦地が危ない場所となるでしょうか」
高薛の言葉は源冬にとって実に説得力に富んでいた。源冬に対してどのように言えば、納得するか。高薛は知り尽くしていた。
「そうであるな。よし、出師だ」
源冬は一晩考えることなく、自らの出師を決した。




