浮草の夢~36~
頓淵啓の死去後、塞ぎこんでいた秋桜が回復すると、源冬はまた毎夜のように秋桜の部屋を訪ね始めた。源冬の秋桜への寵愛はますます深くなり、他の寵姫、特に琳姫は焦燥を募らせていた。それは清夫人も同様であった。
『このままでは主上の愛を失うだけではなく、第二夫人の座も追われるのではないか……』
清夫人は生まれの良さから夫人の座を得たが、源冬からの寵愛を失った今となってはただ後宮に居座る女でしかない。紅公妃のように嫡子がいて、公的な存在感を有しているわけではない以上、いつその座を秋桜に奪われるか分からないのだ。秋桜は養子で下級とはいえ貴族の娘である。夫人となってもおかしくはない存在であった。
「趙鹿。頓女を排除する計画はどうなったのです。頓女が宿下がりした時は主上が同行したために実行できませんでしたが、他に良い案はないのですか?」
清夫人は出入りする宦官の趙鹿に噛みついた。趙鹿としても、そのようなことを言われても、と言わんばかりに顔をしかめた。
「楊桂という男をなんとか利用できないかと思っていましたが、どうにも住んでいた邑からいなくなったようなのです」
楊桂に利用価値があると思っていた趙鹿は、その後も楊桂の動向を探らせていたのだが、ある時を境にいなくなってしまったという報告を受けていた。
「ふん。使えない男。仕方ありませんね、別の手段を考えなさい」
清夫人も趙鹿も楊桂がいなくなったことについて、ほとんど気を止めていなかった。しかし、このことが二人の命運を左右することになるのであった。
その集団がいつ吉野に潜入したのか。後に調査してもまるで分らず、まさに神出鬼没であった。彼らは人知れず吉野に入り込み、吉野宮にも潜入していた。その手際の鮮やかさは、玄人の集団ということがあったにしろ、内部に手引きした者がいなければ成り立たなかった。
事件を突如として発生した。未明に吉野宮の一角で火災が発生した。
「近衛兵を叩き起こして消化にあたれ!」
吉野宮で近衛兵を指揮するのは太子の源円の仕事であった。源円は自らも陣頭に立って消火の指揮を行った。源円の仕事は適切で火事はすぐに消し止められた。
「主上、宸襟を騒がして申し訳ありません。太子が陣頭に立って指揮をし、ほぼ鎮火できたようですが、火災の原因は調査中です」
秋桜の部屋で休息していた源冬のもとに高薛が説明に来た。
「こういう騒動の時には不審者が侵入するものだ。夜のこともある故、存分に警戒するように」
源冬は褥で裸体の秋桜を片手で抱き寄せながら指示を下した。
「承知しました。太子にお伝えし、寺人に命じます」
高薛が退出すると、源冬は小刻みに震えている秋桜をかき寄せた。
「怖いか、秋桜」
「……。はい」
「案ずることはない。余の傍にいれば安全だ」
「主上、心強いです」
秋桜は抱き着くように源冬に身を寄せた。源冬は秋桜の胸に手を触れつつ、反対側の手で行燈の火を消した。
「怖さを忘れさせてやろう」
「主上、このような時に……」
源冬は秋桜の体を愛撫し始めた。秋桜は源冬の巧みな愛撫に声を漏らした。その声に源冬は気を良くしてさらに愛撫に熱が入る。秋桜の嬌声がさらに高まると、どんと部屋の扉が強く叩かれた。
「誰か?」
源冬が声を上げると、扉が開いた。すっと人影が部屋に入ってきた。扉の外では見張りをしていた近衛兵が血まみれになって倒れていた。
「近衛ではないな。賊か?」
誰かある、と源冬は叫びつつ、褥から出て枕元にあった剣を引き寄せた。
「余を静公と知っての狼藉か?」
源冬は他の近衛兵が駆けつけてくる時間を稼いだ。侵入してきた人影は剣を手にしながらも、すぐに襲い掛かってこなかった。暗闇であるからはっきりと見えないが、人影は源冬ではなく、褥で身を震わせている秋桜の方を見ているようだった。
「主上!ご無事ですか!」
部屋の外から声がした。松明も持った近衛兵達が続々と部屋に駆けつけてきた。この時になって侵入してきた賊の姿が顕になった。男は粗衣を着ており、顔は頭巾で全体を覆って目だけを覗かせていた。
「くそっ!これまでか」
男は腰に帯びていた短剣を近衛兵達の方に投げつけると、頭巾を脱ぎ捨てた。体当りして窓を突き破ると、逃げていった。
「追え!」
近衛兵達の一部が男を追っていった。残った近衛兵は源冬と秋桜の無事を確認するとともに、男が捨てた遺留品を検めた。
「大胆不敵な賊だ。どうして顔を晒したのだ?」
源冬だけではなく、その場にいた誰もが頭巾を脱ぎ捨てられた理由など分かるはずもなかった。
賊―楊桂の方には理由があった。ひとつは証拠として頭巾をわざと現場に残すため。もうひとつは自分の姿を秋桜に見せるためであった。しかし、当の秋桜は楊桂の顔など覚えていなかった。




