浮草の夢~33~
結局、源冬は一か月ほど頓淵啓の領地に滞在した。秋桜の体調がよくなったことに気分を良くした源冬は、
「あの湖畔にすぐにでも離宮を建てさせるであろう。そう遠くない日にまた会おう。当然、秋桜を連れてな」
頓淵啓にそのような約束をし、上機嫌で吉野へと戻っていった。秋桜も再開の確約を得たことで機嫌よく源冬について帰っていった。
それより一年ほどの歳月が過ぎた。源冬は変わらず秋桜を寵愛していた。この時点ではまだ秋桜を愛するあまりに政治に影響を及ぼすところまでには至っていない。しかし、東方海賊討伐後に予定していた条国へ攻め入る計画は遅々として進んでいなかった。国庫の財務を預かる斑諸などは無用な出費が減ったと喜んだが、軍事を司る鐘欽などは不満顔を見せた。
「主上は骨抜きにされてしまったわ」
特に鐘欽は条国に対して主戦派であったため不満に思うのは当然であった。
「戦がなければ兵士は弛緩してしまう。そうなってはいざという時に役に立たなくなる」
そのためにも戦がなければならない、というのが鐘欽の考えであったが、国内は平和そのものであり、条国も今は攻め込んでくる気配がない。鐘欽としても徒に煙がない所に火を熾すわけにはいかなかったので、悶々とした日々を送るしかなかった。
そのような状況下で静国の北西部が騒がしくなった。頓家の領地よりさらに北、界国や泉国との国境に近い一帯に山岳部に斗桀族と言われる集団が存在していた。
斗桀、という名称にどのような意味があるのか分かっていないが、かつて北部に割拠していた原住民の手段であるということは間違いなかった。その意味では藤純達の東方海賊と似ていた。
斗桀族は事あるごとに静国に対して反乱を起こし、近隣の邑を荒らしまわっていた。その時代の静公は討伐を行ったが、時を置いてまた出没し、完全に滅亡させることができなかった。
源冬の御代では若い頃に一度討伐を敢行し、それなりの成果を得たが、やはり根絶やしにすることはできなかった。それが今になって勢力を取り戻してきたのである。
「主上!ここは一気に斗桀族を討伐してしまいましょう。ぜひ御親征を」
鐘欽は喜び勇んで源冬に進言した。斑諸達文官も国内のことなので討伐には賛成であった。しかし、当の源冬が乗る気ではなかった。
「余が行くほどのことか?」
源冬は難色を示した。当然、秋桜の傍から離れたくだけのことであったが、それを公言するほど源冬はまだ羞恥心を捨てていなかった。
「先程、主上が御親征されたからこそ東方海賊は討滅できたのです。その騎虎の勢いに乗じて斗桀族をも討滅できれば、静国は永年の安泰を得るのです」
鐘欽は唾を飛ばして必死に訴えた。源冬は顔を顰めるだけであった。
源冬が難色を示しているのは、自分が吉野から離れたくないだけではない。斗桀族が割拠している山岳地帯は攻めるのに難しい地形であった。東方海賊の時のように巨船を建造して蹂躙するような手段が使えなかった。
「安黒胡に任せればいいではないか?」
源冬が言うと、今度は鐘欽が顔を顰めた。
安黒胡は北方の駐屯軍を預かっている将軍である。軍制上の役職としては左中将であるが、北方駐屯軍の軍権を握っており、中央の将軍達からすれば軍閥化する恐れのある目の上の瘤のような存在であった。そして何よりも安黒胡は源冬のお気に入りの将軍でもあった。
「その安左中将です。北方駐屯軍を預かる身ながら斗桀族の跋扈を許したのはかの者ではないですか。懲罰こそ必要であれ、討伐を命じる栄誉を与えるものではありません。それに安将軍は元斗桀の人間です」
源冬は明かに顔に曇りが生じた。お気に入りの将軍を批判されて気分を害したようであった。
「確かに安家は斗桀族だった。しかし、祖父の代に帰順し、それ以来は国家に忠実で北方の安定に寄与している。安黒胡を召喚せよ。節度を与える」
こうなれば閣僚の意見を聞かなくなるのが源冬であった。独断をもって事を進めることにした。




