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七国春秋  作者: 弥生遼
浮草の夢
654/964

浮草の夢~32~

 等や壜の人々は源冬一行を大歓迎した。この一行は謂わば都市規模の邑がそのままやって来たようなものであり、しかもその生活のために金銭や食料を搾取するわけではなく、逆に使ってくれたのである。一気に経済的な潤いを受けることになった。

 「秋桜姫様々よ」

 人々は寵姫となった秋桜の存在はありがたく思い、誇りとした。ただ一人、楊桂を除いて。

 秋桜が帰って来る。楊桂はその情報に対して複雑な心境を抱いていた。

 『秋桜が……』

 秋桜が吉野へと出発した時より、二度と会うことはあるまいと思っていた。だからこそ諦めがついていたのに、それほど時間が経たずして秋桜が帰ってきたのである。

 但し普通に帰ってきたわけではない。源冬の寵姫としての帰郷である。しかも、当の源冬を連れてきている。楊桂からすると遠目にでも秋桜の姿を目にすることはできなかった。

 「所詮は高嶺の花よ。気にするまでもない」

 巨尹は宥めるように楊桂の肩を叩いた。楊桂も表向きは秋桜のことなど諦めた素振りを見せたが、内心では、

 『せめて一目、秋桜を見たい』

 そうすれば本当に諦めがつく。楊桂は自分に言い聞かせた。だが、秋桜は頓淵啓の屋敷に入り、その周辺には警備の兵が数多く警戒している。屋敷に近づくことすら能わなかった。

 楊桂が半ば諦めながら日々の仕事である等の警備をしていると、見知らぬ男が近づいてきた。

 「楊桂という男はお前か?」

 その男は高圧的であった。等や壜では見たことのない男であるから、今回の御成りで吉野からきた何者かだろう。楊桂は返事もせずに胡散臭そうに男を見返した。

 「そんな顔をするな。お前にとってよい話を持ってきた」

 「話?」

 「一度しか言わん。明後日、主上と秋桜姫が外出する。場所は北の湖畔だ」

 「……!どうしてそれを……」

 俺に、と言う前に男は風のように去っていった。その男が何者であるか思案する前に、秋桜を見ることができるかもしれないという胸の高鳴りが楊桂の全てを支配していた。


 明後日、源冬は秋桜を連れて北にある湖に向けて出発した。景勝地というほど有名な湖ではなかったが、頓家の領地の中ではまずまず風光明媚な場所で、源冬は事前に別荘を建てるように命令していた。

 「将来的にはここに離宮を建てよう。そうすれば秋桜もここに帰って来る口実ができよう」

 源冬はそう言って秋桜の機嫌を取った。養父である頓淵啓と再会し、すっかりと気色もよくなり、嬉しそうに頷いた。

 「ありがとうございます。主上」

 「秋桜は慎み深い。もっと欲するものがあれば遠慮なく言うがいい」

 源冬からすると笑った顔の秋桜が見たくて仕方がなかった。並み居る後宮の寵姫の中で、秋桜はどちらかといえば表情に乏しく、喜怒哀楽をあまり表にしなかった。それだけにたまに見せる秋桜の笑顔が非常に魅力的であった。

 「今の境遇でも私には過分です。お気遣いなさらないでください」

 「愛い奴だ。そうだ。生まれの故郷にも帰ってみるか?」

 「無用です、主上。私の故郷は頓の家の他にありません」

 秋桜が即答した。先程の笑顔が消えていたので源冬はやや戸惑った。

 「そうか……」

 秋桜にとって生まれ故郷である琶は辛い思い出しかなかった。両親の顔を見るどころか、琶の邑に近づくことも嫌であった。

 「ただ、弟のことが気がかりです。そう、弟にはいつか会ってみたいです」

 「弟か……。よかろう、そのうち人をやって捜させよう」

 実際に源冬は後に秋桜の弟である庸を捜させた。このことが静国に激震を呼ぶことになろうとは源冬も秋桜も想像できぬことであった。

 

 謎の男に唆されるようにして湖畔まで来た楊桂であったが、湖の反対側から遠望するのがやっとであった。秋桜は米粒程度しか見えず、その声を聞くことなどできるはずもなかった。それでも楊桂は幸せであった。

 「これでいい……」

 巨尹のいうとおり、これは叶わぬ恋なのである。もはや手の届かぬ存在になった秋桜と同じ空間にいるということで満足しなければならなかった。

 「本当にこれでいいのか?」

 背後から声をかけられた。振り向くと例の謎の男が立っていた。

 「誰だ?」

 「誰でもいい。本当にこれでいいと思うのなら、このまま私は去る。もし、これでよいと思わぬのであれば、私と一緒に来い」

 「お前と一緒に行って、どうなるというのだ?」

 「かの女を自分の者にできる。どうだ?」

 「本当にできるのか?秋桜は主上の寵姫だぞ?」

 「危険な橋を渡ることになる。だが、困難を経なければ、宝物を手にすることはできんぞ」

 私達と一緒ならできる、と男は手を差し出した。楊桂は迷うことなく、男の手を握り返した。その日を境に楊桂は等の邑から姿を消した。

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