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七国春秋  作者: 弥生遼
黄昏の泉
65/962

黄昏の泉~65~

 樹弘軍は北上している。その数は一万五千。軍旗を棚引かせるその軍容は、もはや寄せ集めの集団ではなく、立派な一国の軍であった。

 現状、樹弘軍は三万人の動員が可能である。しかし、甲朱関はその半分で充分だとした。

 『この度の作戦では時間が勝負を握ります。相宗如が篭る泉冬が陥落する前に湯瑛軍の接近しなければなりません』

 甲朱関の考えでは、湯瑛軍は長期に渡る戦闘で疲弊しているだろうから兵数の差はそれほど問題ではなかった。それよりも湯瑛軍が相宗如軍を下し、泉冬に篭られる方が厄介だと言う。

 『仮に泉冬が湯瑛に渡ると、我々が泉春を攻略した時に、相房の逃げ場を与えてしまうことになります。これは避けたいところです』

 甲朱関の思考は先の先を見ていた。

 『翼公と戦う可能性はないだろうか?』

 樹弘の懸念はそこにあった。しかし、甲朱関は首を振った。

 『その可能性はないでしょう。翼公は老獪ですが、恩義には厚い御仁です。翼公は静公に対しては相当の恩義を感じておりますから、その静公が後ろ盾になっている我らを害することはないでしょう』

 静公の傍にいた甲朱関ならではの考察であった。樹弘はそれを全面的に信じることにした。

 樹弘軍の進路は、相房の支配下を深く入り込むことになる。極力、集落や城を避けて進むことにしたのだが、時には接近することもあった。そこに篭る相房軍の将兵は戦々恐々とした。

 しかし、樹弘はそれらを完全に無視し、北上し続けた。相房軍は唖然と見送るしかなかった。中には自ら城門を開き、樹弘軍に投降しようとする者達もいたが、

 『先を急ぐゆえ、今は気持ちだけいただこう』

 と言って、やはり止まることなく、ひたすら北を目指した。


 その道中、樹弘は懐かしい光景に遭遇した。

 『この辺りは、あの娼屈があった辺りか……』

 樹弘が厳陶の荷物を泉春へと運ぶ途上に立ち寄った娼屈である。そこで非道の振る舞いに出ようとした緑山党を成敗し、思わぬ歓待を受けたことは今も忘れられずにいた。

 果たして彼らはあの時『ジュコウ』と名乗った少年が、真主となった『樹弘』であると思うであろうか。

 『まず思うまい』

 名前など偶然の一致と思うだろう。なにしろ樹弘自身、未だに自分が真主となったことが信じられないのに、わずかに袖が触れた程度の彼らが核心もって樹弘の名前を結びつけることなどできないであろう。などと思っていると、景黄鈴が樹弘の乗る場所に馬を寄せてきた。

 「主上。この近辺にある邑の者達が主上に食料などを献じたいと申しでています」

 前方遠くに数名の人の集団が見えた。それが雲彰達ではないだろうかと思った。

 「この近辺の邑といえば娼屈しかありません。関わらない方がよろしいでしょう」

 樹弘の隣に座る景蒼葉が顔をしかめた。彼女は景朱麗ほど堅物ではないが、それでも娼屈という者に対して嫌悪を持っていた。ちなみに今回の出師では、景朱麗には貴輝の留守を任せていた。

 「そういう言い方はするべきじゃないよ。彼らだって好きでそういうことで生計を立てているわけじゃないだろう。寧ろ彼らをそのような生業に従事させているのは為政者の責任だ。僕達の使命は、彼らを全うな仕事に就かせ、生活できるようにしてあげることではないだろうか」

 樹弘がそう言うと、景蒼葉ははっと顔をこわばらせた。

 「主上の仰るとおりです。私が浅はかでした」

 「黄鈴。彼らに伝えてくれ。食料は貴方達にとっても貴重なものだから、献ずるには及ばない。気持ちだけはありがたくいただく。今後も自愛をもって過ごしてください、とね」

 承知しました、と黄鈴が馬を走らせ、彼らの所へ向かった。しばらくすると、彼らが膝をついて叩頭する姿が遠くに見えた。

 『これでいい……』

 もう彼らと交わることはないだろう。しかし、彼らの生活のために、樹弘は真主と努めていこうと決意を新たにした。

 「主上。こちらを」

 戻ってきた黄鈴が小さな袋を差し出してきた。赤い地色の布でとても良い匂いがした。

 「匂い袋か……」

 「主上の道中の慰みに、と女性がぜひ渡して欲しいと」

 樹弘は袋を近づけてひと嗅ぎした。

 『この匂いは……』

 たった一夜のことであったが、あの官能的な夜のことを忘れることはなかった。この匂いは、閨で嗅いだ雲華が焚き染めていた匂いであった。

 『雲華は気づいたかな』

 樹弘は匂い袋を懐に入れた。ふわっと良い香りが鼻腔に触れた。

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