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七国春秋  作者: 弥生遼
浮草の夢
644/964

浮草の夢~22~

 源冬が東方海賊の討伐に成功し、帰還の途上にあるという報せを受けた紅公妃は、いよいよ時が来たと思った。秋桜を源冬に見せる前にやっておきたいことが紅公妃にはあった。

 「秋桜、今宵の湯当番はあなたが務めなさい」

 紅公妃は午後の喫茶の準備をしていた秋桜に声をかけた。

 「私が湯当番ですか?」

 湯当番とは浴室において紅夫人の体を洗う仕事である。これは公妃付の古株の侍女が行っていた。

 「そうです。侍女長には後で言っておきますから」

 「承知しました」

 驚きながらも秋桜は拝命した。

 数刻後、紅公妃は湯殿に入った。付き添うのは秋桜。他の侍女に手伝われながら衣服を脱いだ紅公妃はちらりと鏡で自分の裸体を見た。すでに年齢は四十後半であった。同年代の女性に比べればまだ美しい肉体をしていたが、それでも若い頃に比べれば肌は輝きを失い、肉付きに弛みもみられた。

 『それに比べて……』

 秋桜の瑞々しさはどうだろうか。紅公妃の体を洗うため、秋桜は湯あみ着を着ていたが、それでも若い女性としての魅力が隠しきれていなかった。

 「秋桜。あなたも脱ぎなさい」

 「え?」

 紅公妃に言われ、秋桜は明らかに戸惑っていた。湯当番の侍女も裸体になるというのは聞いたことがない。傍にいた侍女長も困惑していた。

 「聞こえなかったのですか、秋桜。あなたも脱ぐのです」

 紅公妃が再度命令すると、秋桜は侍女長の方を見た。侍女長が頷くと、秋桜は湯あみ着に手をかけた。やや恥じらいながら湯あみ着を脱いだ秋桜の裸体に紅公妃はしばらく釘付けになった。女体としての美しさでいえば、自分の若い頃よりも数段上であろうし、源冬がこれまで愛してきた女性の中でも全てを見てきたわけではないが、間違いなく秋桜の美貌は群を抜いていた。

 紅公妃はひとつゆっくりと息をすると湯殿に入った。秋桜がそれに続いた。紅公妃が湯船につかっている間、秋桜は浴室の隅で控えていた。紅公妃があまりにもじろじろと見るものだから恥ずかしいらしく、両手で局部を隠していた。

 『まだ男を知らぬ乙女なのか……』

 秋桜の挙動は乙女のそれであるように思われた。あれだけの肉体を持っていれば、すでに男に言い寄られていてもおかしくはないと思っていたが、どうやら違うらしい。

 「さ、秋桜。体を流しておくれ」

 湯船からあがると紅公妃は籐の椅子に座った。はい、と答えた秋桜が紅公妃の背後に立ち、絹の手ぬぐいに石鹸をこすり付け泡立てていった。秋桜は泡立った手ぬぐいで紅公妃の体を丹念に洗っていった。力を籠めるわけではなく、さりとて手を抜いているわけではなく、上質な璧を磨くような丹念さがあった。

 「あなたは本当に掃除が上手いわね。私も綺麗にして頂戴ね」

 「はい」

 秋桜は嬉しそうに声を上ずらせた。

 「その掃除の上手さ。養家で仕込まれましたか?」

 「はい。父は厳しい人でしたが、私にとっては本当の父でした」

 「あなたは確か生家は北方の邑と聞いていますが、そちらの両親は?」

 紅公妃は秋桜の生い立ちについては大よそ聞き及んでいた。彼女が頓の姓を名乗っているのは侍女として仕えていた頓淵啓の養女となったからだという。侍女を養女にするというのは非常に珍しい。

 「私は琶という寒村で育ちました。ですが、貧しかったので売られたんです」

 「聞いています」

 「ですから、私にとって琶の両親は両親ではありません。私の父は頓家の父だけです」

 「ここで働いている者達もあなたのような境遇を辿ってきてます。しかし、奉公先の養女となるというのは珍しいですね」

 「そうなんですか?」 

 「そうですよ。まぁ、あなたを見ていると養父のお気持ちが分かる様な気がします」

 「ありがとうございます。それならば公妃様は私にとっては母のような方です」

 そう言ってから無礼だと思ったのか、失礼しましたと秋桜は謝った。

 「いいんですよ。私には娘がいないから、嬉しいわ」

 紅公妃は振り向いて秋桜を見た。秋桜はうっすらと瞳に涙をためていた。

 「秋桜?」

 「すみません。畏れ多いことですが、嬉しくて……」

 「あなたは良い娘ですね。その気持ち、忘れないでくださいね」

 さぁ背中をながしてちょうだい、と言うと、はいという明るい元気な秋桜の声が返ってきた。

 後世、秋桜はその美貌によって源冬を惑わした悪女として市井の怨嗟の的となるのだが、彼女と直に接してきたほとんどの人々は彼女のことを悪く言わなかった。秋桜には天性の人を魅了する何かが備わっていた。

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