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七国春秋  作者: 弥生遼
浮草の夢
637/965

浮草の夢~15~

 吉野からの迎えの馬車が頓淵啓の屋敷の前に止まった。高薛自らが使者となってやってきた。

 秋桜はあくまでも後宮に務める侍女になるだけである。吉野宮から使者が迎えに来るなど基本的にはありえないことであった。しかし、秋桜の場合は源冬のために高薛が寵姫候補として探し当てた女性となる。普通の侍女とはわけが違った。

 この日のために頓淵啓が買い与えた衣服に身を通した秋桜はわずかばかりの荷物を手に馬車に乗った。頓淵啓も渓省も悲し気ではあったが、高薛の手前涙を見せるわけにはいかなかった。

 「頓殿。秋桜をお預かりします。決して悪いようには致しません」

 高薛という宦官はあくまでも丁寧であった。この期に及んでも源冬の側近という立場を笠に着ることなく、頓淵啓のような下級貴族にも偉ぶることはなかった。

 「ありがとうございます。高薛殿なら私も安心して娘を任せられます」

 それは本心であった。もし高薛以外の宦官が使者として来ていれば頓淵啓は今回の話を突っぱねたであろう。

 「しばらくは難しいですが、時間が経てば里帰りも認められます。それまでの間、お元気であられますように」

 高薛は温かみのある言葉をかけながら馬車に乗り込んだ。代わって秋桜が身を乗り出してきた。

 「お父様、お元気で」

 「秋桜、元気でやるのだぞ」

 頓淵啓は娘の伸ばしてきた手を握った。温かい手であった。

 「渓省様もお元気で」

 「うん。体に気を付けるのだぞ」

 出してくれ、という高薛が御者に言い、馬車がゆっくりと進み始めた。頓淵啓と渓省は馬車が見えなくなるまで見送っていた。


 頓淵啓の領地から吉野まで馬車で十日ほどかかる。その間に高薛は秋桜に吉野宮における様々な知識を教えなければならなかった。

 「現在、主上には二人の御夫人がおられます。公妃である紅公妃、それと第二夫人である清夫人です」

 女色家である源冬は当然ながら子福者でもあった。秋桜が後宮にあがらんとしている時点で男女合わせて二十名ほどの子がいた。そのうち男児が十一名おり、それらの子の母をすべて夫人に取り立てると後継者争いの火種となってしまう。そこで源冬は実家の身分が高い紅と清だけを夫人にしていた。そのうち紅のみが男を生んでおり、それが嫡男の源円であった。

 「清夫人には残念ながら御子がおられませんが、まだお若いのでどうなるかは分かりません」

 高薛の説明に秋桜はじっと耳を傾けていた。本当に覚えているのかと不思議に思い、たまに質問してみると、秋桜は澱みなく正解を口にした。

 『やはり秋桜は相当賢い』

 高薛は改めて良き女性を発見したと密かに喜んだ。

 「そのほかにも沢山の寵姫がおられますが、ま、覚える必要はないでしょう。秋桜には紅公妃に付いてもらう予定です」

 「公妃様ですか?」

 流石に秋桜は緊張の色を見せた。これには高薛の思惑があった。

 いきなり寵姫として後宮にあがれば、他の寵姫の嫉妬を買うことになってしまう。表向き侍女として後宮にあがるのはそれが理由であった。しかも、紅公妃の侍女であったとなれば、他の寵姫も秋桜には手が出しにくくなる。

 『それに紅公妃は他の女に嫉妬しない』

 紅公妃はすでに中年期を過ぎ、第一夫人という地位に満足しており、源冬に愛情を感じていない。自分の侍女から寵姫が出ても何らの感情も抱かないだろうという確信が高薛にはあった。秋桜が源冬の寵姫となって後宮で生き残っていくには最適な方法であった。

 「心配しなくても大丈夫です。いきなり公妃様にお仕えするわけではありません。公妃様の目が届かぬ場所の雑用から始めてもらいます」

 源冬の目に留まらせるためにもその方が都合が良かった。

 「私に務まるでしょうか?」

 秋桜が初めて不安を覗かせた。そのやや愁いを帯びた表情は、宦官となった今でも男をぞくりとさせるものを感じさせた。

 「不安ですか?」

 高薛が問うと、秋桜ははっきりと頷いた。

 「誰もが最初はそうでしょう。ならば頓殿を父として仕えたように公妃様を母と思い仕えなさい。もっとも口にするのは畏れ多いことですが、他者に仕えるというのは父母に接するようなものだと私は思っています」

 「では、高薛様にとって主上は父のような方なのですか?」

 「ははは。なかなか面白い質問ですね。そうですね。静国の臣民にとって主上は父のような存在でしょう」

 高薛はごまかしてみたせが、彼にとって源冬は父のような存在であるとは言えなかった。あくまでも絶対服従をする主君以外の何ものでもなかった。

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