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七国春秋  作者: 弥生遼
浮草の夢
635/965

浮草の夢~13~

 高薛が辞去した後、頓淵啓は一人になって考え込んだ。

 「秋桜を後宮にか……」

 確かにこれ以上名誉なことはなく、秋桜の人生も一気に華やぐことになるだろう。本来であるならば迷って考えるようなことではなかった。高薛は頓淵啓の逡巡を見抜き、時間の猶予をくれた。そのことが頓淵啓をさらに悩ませていた。

 「しかし、断れることではない」

 高薛は口でこそあのように言ってくれたが、秋桜を後宮にあげるというのは実質的には源冬の勅命に等しい話である。無理にでも秋桜を連れて行くことができたにも関わらず、頓淵啓と秋桜に選択する時間を与えてくれたのは高薛という宦官の優しさ以外の何ものでもなかった。

 「やはり、秋桜の意思を尊重すべきだろう」

 もし秋桜が拒否するようなことがあれば、自分は自害し、秋桜をどこかに逃がせばいい。腹を決めた頓淵啓は秋桜を呼んだ。

 「お呼びでございますか、旦那様」

 秋桜はすぐに現れた。改めてみると秋桜は本当に美しく育った。もし自分が老齢でなければ、早い時期に彼女を閨に招いただろう。そのようなことを思いつつ、首を振った頓淵啓は秋桜に座るように言った。秋桜はおずおずとして着席した。

 「これよりは父として話をする。お前は娘として聞いて欲しい」

 はい、と秋桜は答えた。澱みのない綺麗な声であった。

 「先程の来客だが、吉野からの使者だった。秋桜、お前を後宮に入れたいと言ってきたのだ」

 頓淵啓は秋桜の顔色を窺った。ただ驚き、顔を強張らせていた。

 「御使者は高薛殿という後宮の侍従長だ。主上のすぐお傍におられるような御方だ。そのような立場の方ながら、行く行かないの選択を我らに委ねてくれたのだ」

 「お父様はどのようにお考えですか?」

 秋桜が父と呼んでくれたのは初めてのことであった。それだけで頓淵啓の涙腺を刺激した。

 「高薛殿はお優しい方だ。選択の余地を与えてくれたが、断れるものではないと思っている。しかし、私としては私が死ぬまではお前に傍にいて欲しいとも思っているのだ。だから悩んでいる」

 頓淵啓は懊悩を隠さなかった。そのような父の表情を見て、秋桜も眉をひそめた。

 「後宮に入れば生活は一変する。仕事は緊張を強いられるだろうが、ここよりも良き生活ができるだろう。あるいは主上のお手がつけば姫にもなれるかもしれん。お前の人生だ。お前が選びなさい」

 秋桜はじっと頓淵啓を見据えていた。頓淵啓は秋桜の意思に任せたが、秋桜の方は父に決断して欲しいと思っているのではないか。そう思っていると、秋桜の美しい唇が開いた。

 「お父様。私、行きます」

 秋桜ははっきりと言った。頓淵啓はやや呆然とした。もしかすれば秋桜が父である自分を慕い後宮には行かぬと言うのではないかと思っていた。だが、続けて出てきた秋桜の言葉は娘としての暖かみが込められていた。

 「自分のためではありません。お父様のためです。私が後宮に行くことは頓家にとっても名誉なことですし、私が行くぬと言えばお父様も辛い目に遭うことになるかもしれません。私のために困っているお父様のことを見たくありません」

 『この子は……』

 頓淵啓はもはや涙を流すことに躊躇いはなかった。父のことを気遣ってくれた嬉しさと、自分のために生きることを知らない娘への悲しみが渦のようになって頓淵啓の感情を揺さぶった。

 秋桜という少女は自分の意思で生きるということを知らぬのだろう。寒村に生まれたことも奴隷として売られたことも、そして頓家に来たことも秋桜の意思ではなかった。あるいは頓淵啓の養女となったことすらも、自発的な意思ではなかったのかもしれない。

 『悲しい子だ』

 秋桜が生まれ持っての悲しみから脱するには頓家では狭いのかもしれない。

 「秋桜。お前がそう思うのであれば、憂いなく後宮にあがるがいい。侍女はまた渓省が見つけてくれる」

 秋桜がはっとした表情になった。後宮に行くことばかりを考えていて、自分がいなくなる頓家のことまで思い至っていなかったようだった。

 「そんな顔をするな。私は自信をもってお前を頓家の娘として送り出すのだ。それに……」

 自分はもう長くはない、と言いかけて頓淵啓は口を噤んだ。そのようなことを言うと、秋桜は一転していかぬと言い出すかもしれなかった。

 「お父様?」

 「何でもない。何処へ行こうと私はお前の父で、お前は私の娘だ。頓家のためではなく、自分のために生きて行きなさい」

 頓淵啓が父として言えることはそれだけであった。

 

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