浮草の夢~7~
頓淵啓での奉公はその日から始まった。屋敷の掃除、洗濯のすべてが秋桜の仕事となり、炊事については夕方にやってくる飯炊きの老婆を手伝いながら覚えていった。秋桜はそれらの仕事をそつなくこなし、炊事についても三か月ほどで一人でこなせるようになっていた。
但し、秋桜には休日はない。早朝に起きてからの水くみから始まり、夜は主人である頓淵啓が休むまで自分の小屋に戻ることは許されなかった。それでも秋桜には不満などなかった。その日の食事と眠る場所が確保されているだけで十分であり、働くことも決して嫌いではなかった。そのような秋桜の勤勉な働きぶりに頓淵啓も渓省も満足していた。
「秋桜はよい娘だな。良く見つけたて来たものだ」
秋桜が来て半年ほどしたある日、頓淵啓は渓省に言った。
「畏れ入ります。私も同じことを感じております」
「奴隷市場で見つけてきたと言っていたな」
「はい。幼気な少年少女が売られているというのは心痛むものがありましたが……」
「ふむ……。やむを得ないことではあるな。そうせねば、生きていけない者達もいるということだ」
頓家の暮らし向きもそれほどよくはない。それでも静国の貴族の端くれとして何とか御領主様としての生活はできている。頓淵啓はそのようなつつましやかな生活に満足はしていた。
「奴隷市場に赴いて思いました。この国の貧しさはどこから来るのだろうかと。世間では静国は開闢以来の全盛を迎えていると言われているのに……」
「御当代は英明であられる」
頓家も端くれとはいえ静公に仕える貴族である。静公を批判するような発言を許すわけにはいかなかった。
「失礼しました……」
「まぁ、そうは言っても私も同じことを思わないでもない。御当代が英明なのは間違いない。しかし、どうにも目先の栄華ばかりに気を取られ、足元を見られていない気がする」
現在の静公の代になって静国は経済的に豊かになったと言われている。しかし、それは国都吉野を中心とした大きな邑ばかりだとされており、そこから零れ落ちる者達も少なからずいた。
「左様でございましょう」
「貧富に差が出るのは仕方あるまい。だが、零れ落ちた者を救いあげることもせねばなるまいよ。ま、私にできるのは秋桜を拾い上げ雇ってやることぐらいだがな」
頓淵啓ができるのはそれが精一杯であった。
秋桜が頓淵啓の屋敷に来て一年が過ぎた。すでに秋桜は長年仕えてきた侍女のような働きを見せていた。その働きぶりに当初は厳しい視線を向けていた渓省はもはや小言一つ言わなくなり、頓淵啓も只管感心し、生活の全てを彼女に頼るようになっていた。
『秋桜に単なる家事をさせるだけでは勿体ないのではない?』
そう思うようになっていた頓淵啓は渓省と相談し、秋桜にある提案をした。
「秋桜、文字を習ってみる気はないか?」
部屋の掃除に来た秋桜に頓淵啓自ら切り出した。
「文字ですか?」
秋桜は当然ながら文字を読めない。この当時の静国の識字率は三割程度であり、一部の上流階級民と知識人しか文字の読み書きはできなかった。
「そうだ。最低限の文字ぐらいは読めた方がよいと思ってな」
「あの……その……」
秋桜は言いよどんだ。本心としては習いたいのだろう。しかし、主人への遠慮があり言い出せずにいるようだった。
『この子は自ら望むということを知らないのだろう』
秋桜の年齢のことを考えれば、それはあまりにも不憫なことであった。
「私が知らぬと思っていたのか?お前が書斎を掃除するたびに書棚にある本に興味を示していることを」
頓淵啓が指摘すると、秋桜は顔を真っ赤にした。
「す、すみません」
「謝ることではない。寧ろ、我が家にためにも文字を覚えて欲しいのだ」
「旦那様のためですか?」
「そうだ。渓省がどういう仕事をしているか知っているな?」
秋桜は小さく頷いた。渓省は頓家の家令として領有している二つの邑にまつわる事務的な仕事をしている。
「渓省は頑張ってくれているが、あれも年だ。色々と大変になってくるだろう。お前が文字を分かるようになれば、あれの仕事の助けとなる。どうだ?」
「はい。教えてください」
秋桜は即答した。渓省の助けとなる。頓家のためになる。秋桜はそういう言葉に弱いようだった。
『しかし、文字を知るのは誰のためでもない。秋桜自身のためになろう』
頓淵啓からするとそれが一番の願いであった。




