浮草の夢~6~
初老の男は渓省と名乗った。この邑からほど近い所に領地を持つ頓家の家令だという。
「渓省様のご主人様は貴族様なのですか?」
秋桜は渓省が手綱を取る馬車に乗せられた。道中、渓省は色々なことを教えてくれたので、秋桜としても話しかけやすかった。
「この国の制度で言えばそういうことになる。しかし、秋桜が想像しているなものではないぞ。領地を戴いているとはいえ、小さな邑が二つあるだけのことだ」
「それでも私がいた家よりもましです」
「ふむ……。そうなのだろうな」
渓省がふと優し気な眼差しになったような気がした。
渓省は秋桜と会話をしていて満足していた。
『この子は相当賢い。そして品がある』
とても貧しい家の生まれの娘とは思えなかった。彼女なら主人も気に入るだろうという自信があった。
頓家では長年仕えていた侍女が病のため辞めており、その代わりを家令である渓省が探していた。どうせなら長く仕えてくれる若い女性の方がいいと考えていたが、なかなか良い女性が見つからなかった。そのことを出入りしている商人に相談すると、近隣の邑で行われている奴隷市場のことを教えてくれたのだった。
『奴隷か……』
正直気が進まなかった。奴隷市場で売られている少女達は、そのほとんどが性的な慰み者となるしかなく、そのような場所に足を運ぶのは億劫であったが、物は試しと思い行ってみることにした。そこで秋桜と出会ったのである。
牢の中にいた秋桜は悲しみに色を見せていなかった。自らの未来への諦めを見せつつも、生きることへの活力を表情のどこかに見せつけているように渓省には思えた。
直観的に秋桜が良いと判断した渓省は彼女を連れて帰ることにした。本当はもう一人ぐらいは連れて帰って、一人でも多くの少女が慰み者となる未来から救いたかったが、今の頓家の財政では無理に等しかった。
「詳しくはお屋敷についてから説明するが、お前には頓家の炊事、洗濯、掃除などの家事全般をやってもらう。私以外に従者はいないので、ほぼ全部をしなければならない」
「お洗濯とお掃除はできますが、ご飯を作ったことはありません」
秋桜は申し訳なさそうに言うが、そういう素直なところも渓省としては好感が持てた。
「そうか。ならば飯炊きの婆さんをしばらく雇い続けることにしよう。彼女からいろいろ教わるといい」
「はい。ありがとうございます」
秋桜は安心したように礼を言った。彼女なら間違いないだろうということが渓省の中で確信に変わっていった。
馬車は一日かけて屋敷に到着した。渓省は小さな屋敷だと言ったが、秋桜からすると十分に大きな屋敷であった。
しかし、渓省は秋桜を屋敷に入れず、離れの小屋に連れて行った。
「お前は今日よりここで寝起きすることになる」
こちらも秋桜の実家からすれば大きく、しっかりとした作りをしていた。これだけでも秋桜からすれば故郷を出た甲斐があった。
「中に侍女用の服がある。それに着替えて屋敷の玄関先に来るのだ」
渓省は秋桜に鍵を渡すと去っていった。秋桜はその鍵を使って小屋の中に入った。
小屋の中には小さな寝台と机が置かれているだけであった。それでも狭い一致で家族全員が雑魚寝をしていた実家の家よりも遥かにましであった。
寝台の上に服が置かれていた。薄手ではあったが、生地は秋桜が触ったことのないなめらかな手触りでだった。これが絹なのだろうか。心地よい肌触りを感じながら衣装に袖を通した秋桜は急いで渓省が待つ玄関へ向かった。
「では、旦那様に挨拶をしよう」
渓省に案内されるまま屋敷に入った。秋桜にとっては目が回りそうな大きな家であった。果たしてどこに何があるか覚えられるだろうかと不安になりつつあると、渓省が立ち止まった。
「旦那様、連れてまいりました」
渓省が扉を叩き声をかけると、入れという声が返ってきた。失礼します、と言って渓省が扉を開けると、一人の老人が椅子に座っていた。
「旦那様、侍女として雇うことにしました秋桜です」
「は、はじめまして。秋桜です」
秋桜は渓省に教えられたように挨拶した。老人は杖をついて立ち上がると、ゆったりとした歩み寄ってきた。
「頓淵啓だ。よろしく頼む」
思いのほか優しい気な声であった。秋桜を見る目も優しさに満ちていた。
「はい。頑張ります」
この人が主ならやっていける。秋桜は直観的に思えた。




