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七国春秋  作者: 弥生遼
浮草の夢
625/964

浮草の夢~3~

 早朝、秋桜を迎える馬車が邑の入口に到着していた。秋桜以外にも売られていく娘がいるようで二、三人の幼い娘がすでに馬車に乗せられていた。

 「琶の邑の習でございます」

 父が御者台に座る男に慇懃に挨拶した。その卑屈さは奴隷が主に接するようであった。

 御者台の男はじろりと秋桜のことを一瞥すると、懐から革袋を取り出し父に向って投げ渡した。

 「ありがとうございます」

 父は革袋を実にありがたそうに懐に座った。自分を売った代金なのだろう、と秋桜は察した。

 「乗せろ」

 御者台の男が言った。野太い声だった。

 「さ、秋桜、乗るんだ」

 父が促した。すでに馬車に乗っていた娘達は、虚ろな視線を一瞬だけ秋桜に向けたが、何事もないように俯いた。彼女達も貧しい家に生まれ、金銭に替えて売られる運命を早い時期から悟っていたのだろう。悲しみなどすでに涸らし、これから始まる無機質な生活への絶望と諦めだげが今の彼女達の全てであった。

 『私もそうだ』

 父はお屋敷で奉公と言ったが、分かったものではない。御者台の男はきっと奴隷商人だろう。奴隷は市場に出されれば、買い手は様々である。どこかの貴族や富商に拾われれば女中となれるだろうが、娼館の主に買われる可能性もある。幼いながらも働かされていた身からすれば、その程度のことは理解できるようになっていた。

 『もし、ここで私が泣き叫び、嫌がったらどうなるんだろう』

 そう想像するのは子供としての最後の抵抗であったかもしれない。しかし、それを実行するほど秋桜は子供ではなかった。秋桜は無言のまま荷台に乗り込んだ。

 「秋桜、元気でな」

 父が別れの言葉をかけてきたが、その顔は全然悲しそうではなかった。きっと金子の入った革袋の重みを今すぐにでも再確認したいに違いない。秋桜はもう目を合わせなかった。

 「出すぞ」

 御者台の男が馬の手綱を引いた。馬車がゆっくりと動き出した。

 「姉ちゃん!」

 遠ざかる馬車に邑の方から声がした。弟の庸が駆けてくるのが見えた。

 「庸!」

 秋桜は思わず身を乗り出した。庸は泣き叫びながら馬車を追いかけようとしたが、父に抱きかかえられた。

 「姉ちゃん、僕、大人になった一杯お金稼いで姉ちゃんを迎えに行くから!絶対に!」

 庸の言葉は確かに聞こえた。その姿が見えなくなると、秋桜はようやく涙を流した。


  秋桜を乗せた馬車は一定の速度を保ちながら進んでいく。外の風景を見てももはやここがどこなのか秋桜には分からず、当然どこへ向かうかも秋桜には分からなかった。

 御者台の男は非常に無口で何も語ることなく、時たま振り返って秋桜達が逃げ出していないか確認するだけであった。

 「ねぇ、あなた、名前は?」

 秋桜が悄然として外の景色を眺めていると、隣に座っていた少女が声をかけてきた。秋桜はちらっと御者台の男を見た。男は少女の声に反応することなく、煙草を燻らせていた。

 「秋桜」

 秋桜は短く言った。

 「私は香。埼の邑に住んでいたの」

 埼という邑は琶の隣に当たる。しかし、歩いて半日かかる距離なので秋桜ぐらいの子供は行ったことがなかった。

 「あなたも売られていくんでしょ?」

 香が不躾に聞いてきた。

 「あなたと同じ馬車に乗っているんだから、そうでしょう」

 秋桜がつっけんどんに言うと、香は少し笑って、あなた変わっているわねと言った。

 秋桜からすれば香の方がよほど変わっていた。他の少女と違って彼女だけは絶望の色を見せていなかった。

 「あなたはあまり悲しそうじゃないわね」

 秋桜が率直に訊ねると、あなたもね、と香は言い返した。他者から見ればそう見えるらしい。

 「だって、毎日一食しか食べられなかったのよ。お屋敷に奉公となれば、お仕事をしなければならなくても、二食は食べられるでしょうし、雨漏りのする部屋で眠らなくてもいいのよ」

 その方がいいじゃない、と香は言う。要は貧困から抜け出せることを喜びとしているのだろう。

 「もう家に帰られないのよ。家族に会えなくてもそれでいいの?」

 「いいわよ。生むだけ生んでおいて育てられない親なんて会いたいとも思わないわ。あなたもそうでしょう」

 香に質問を返されて、そうかもしれないと秋桜は思った。

 「そうね」

 確かに両親には会いたいと思わなかった。会いたいと思えるのは弟の庸だけだった。

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