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七国春秋  作者: 弥生遼
浮草の夢
624/965

浮草の夢~2~

 手がしびれるほどに川の水は冷たかった。

 中原の南方にある静国は比較的温暖であるが、界国にほど近い北西部は冬ともなれば翼国や龍国に負けぬほどの寒さに覆われることもあった。

 秋桜は川の中に入れた桶を取り出すと、傍に置いてあった桶に注いだ。その桶に衣服を入れ、軽石でごしごしとこすり始めた。もう手の感触はないに等しかった。

 「くしゅん……」

 小さなくしゃみをすると、身が震えた。川の水が冷たいだけではなく、当然ながら外気も冷たい。それにも関わらず秋桜が着ている衣服は真綿ではなく粗末な麻であった。

 後に静公の寵姫となる頓秋桜は、静国の寒村の生まれであった。邑の名は琶といった。余談ながらこの頃の秋桜には姓はない。というよりも当時、静国では姓をもつ庶民は少なく、全ての国民が姓を持つようになるのは源真の時代になってからであった。秋桜が『頓』の姓を得るのはもう少し後のこととなる。

 一心不乱に軽石で衣装をこすっていると、みるみるうちに水が濁っていった。こうして洗濯するのは五日ぶりである。雨が降ると川辺での洗濯はできなかった。

 秋桜は桶から洗濯物を出すと一度水を捨て、再び桶を使って川の水を汲んできた。十歳になる少女にとっては非常に重労働だが、貧家では子供であっても働かなければならないのが常識であった。

 秋桜の家は非常に貧しい。父と母、兄と弟の五人で暮らしている。父は小作人であり、兄共々地主から与えられた田畑を耕していた。母は弟の面倒を見ながら織物を作る内職をしており、家事全般は秋桜の仕事となっていた。

 小作人の収入は極めて少ない。父と兄が与えられた土地を懸命に耕しても一家五人が食っていくにはとても足りなかった。母が織物で内職していても、その収入はたかが知れている。

 『いずれ私は口減らしのために何処かに売られる……』

 秋桜は予感していた。実際に琶ではそのようにして売られていった娘は少なく、彼女達がどうして売られ、どのような場所に売られていくか。十歳であっても理解できた。

 『売られるのなら、せめてどこかのお屋敷がいい』

 秋桜にはすでに覚悟があった。数年前から父も母も自分に愛情を向けなくなっている。一応は飯を食わしてくれるが、それは将来売られていく商品を商品として大事にしているだけであり、親が子に向けるそれではなかった。

 「さて……」

 洗濯を終えた秋桜は洗濯物を桶に入れて持ち上げた。こうしうて家族の衣服を選択するのもあとわずかであろう。

 

 別れは突然やってきた。

 春にまだならぬある日、夕食を終えた秋桜を父である習が呼び止めた。

 「秋桜、明日からお屋敷に奉公に行ってもらう」

 「はい」

 秋桜は無感動に返事した。すでに覚悟を決めていたことなので驚くことも悲しむこともなかった。

 「お屋敷に奉公に行くというのは、ここには二度と帰って来れないということだ。まぁ、ここよりも暮らしぶりは良くなるだろうが、ずっと働かなければならない」

 秋桜が無反応なのは奉公に上がるという意味を理解していないためであろうと思ったのか、父は無用な説明をした。

 「分かっています。それで私はどこに売られるんですか?」

 秋桜が言うと、父は覿面に嫌な顔をした。すでに兄は囲炉裏の傍でふて寝をしていて、母は聞こえぬふりをして織物をしていた。

 「そういうことを言ってくれるな。仕方ないだろう。そうしなければ、我が家は飢えて死ぬだけだ」

 家族のためだ、と無念そうに父は言う。家族のためと言うが、秋桜としては愛情を感じない家族のために売られたくはなかった。ただ愛情のない家族から解き放たれるのであれば、売られても構わないと思っていた。

 「姉ちゃん、どこかに行ってしまうん?」

 弟の庸が甘えた声で秋桜の腰に抱き着いてきた。秋桜が肉親の情を感じるのは唯一この弟だけであった。

 「そうね。でも、庸がいい子にしていたら、また会えるわよ」

 「いやいや!」

 庸は泣き始めた。それまで会話に一切入ってこなかった母が庸を秋桜から引き離していった。小作人の家として庸も将来重要な働き手なのである。

 「ともかくもそういうことだ。明日の朝に迎えが来る。今日は早く寝なさい」

 やや煩わし気に会話を打ち切ると、父は秋桜に背を向けて、欠けた椀に入った安酒を一口あおった。秋桜はもう何も言わず、自分の布団に入ることにした。

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