栄華の坂~64~
ひとまず領都である季陽に帰還しようとしていた項董のもとに驚くべき報せが飛び込んできた。
「あの若造が我が領地に攻め込んできただと!」
条元に敗れたことも屈辱であるが、それ以上に若僧と見下していた新淳にまんまとしてやられたのはそれにも勝る屈辱であった。
「どうやら斐殿は若僧に弄ばれたようですな」
趙貝は斐巍に嫌味を投げつけた。結果として新合領に使者として赴いた斐巍は新淳に騙されたことになる。斐巍は顔面蒼白になりながらも、何も言えず唇を噛み締めていた。
「ふん。所詮は火事場泥棒よ。そんな戦をしたいのであれば、喜んで受けて立ってやる」
項董は斐巍については触れず、新淳への怒りだけを顕にした。季陽には戻らず、そのまま越境してきた新淳軍を討つことにした。項董としてもここで新淳軍を敗り、自軍の士気を回復させる狙いがあった。
「新淳を討つのは良いとして条元が攻めてきませんか?」
趙貝が進言してきた。項董はじっと一瞥した。
『そもそもこいつが大将軍が勝つというから進軍を決意したのだ』
声にこそ出さないが、項董は密かに趙貝に責任転嫁をしていた。趙貝のせいで条元に負けたのだと思うことで、敗北の屈辱を何とか拭おうとしていた。しかし、ここで声に出してしまっては領主としての器量が問われるであろうと思い、ぐっと我慢していた。
「それもあり得るな。では、趙貝よ。お前は季陽に戻って万が一に備えよ」
ここは趙貝に任せるしかなかった。趙貝は見北領の有力者として私兵も多く、兵の指揮もまずくない。条元が攻め込んで季陽を包囲することになっても、かなりの日数持ちこたえてくれるだろう。
「もし条元が攻めてきたのならすぐに連絡を寄こせ。すぐに救援に駆けつける。そうなれば条元を逆に包囲してくれる」
「承知しました」
項董はここで趙貝と別れ、新淳軍迎撃に向かった。
新淳は明かに出遅れていた。
項董が美堂藩に攻め込むや否や兵を挙げていれば、無人に等しい季陽を奪取できたのだが、費閑からの書状を待っていたがために出陣が遅れ、ようやく腰を上げた時には項董は条元に敗れ、季陽に帰還せんとしていた。
「所詮は敗軍よ。蹴散らしてしまえ」
新淳は間の悪さを呪いながらも進軍を決意した。条元に敗北したのだから、項董の軍など大したことあるまいと高を括っていた。その油断が進軍速度を遅くさせていた。
これに対して領地を侵されているだけに項董軍の方が迅速であった。新淳軍の全軍がようやく越境を完成した頃には、項董軍の先陣がすでに到着していた。
「敵を見つけたら本隊の到着を待つ必要はない。攻めかかれ」
項董は先陣にそのような命令を下していたので、先陣を務める将は迷うことなく新淳軍に攻めかかった。
「思慮のない猪どもよ。猪狩りといこうではないか!」
新淳からすれば予定よりも早い会敵であったが、敵先陣が少数であると知るとこちらも躊躇うことなく戦闘を開始した。
項家と新家が激突した。何代にも渡り縁戚関係を結んできた両家が正面切って戦をするのは初めてのことであった。
戦は互角で推移していった。項董軍は数でこそ少なかったが、先陣を任されていた将兵達は軍中でも精強であり、多数で襲いかかってくる敵をよく防いだ。それでも一日二日過ぎると次第に押され始め、あわや戦線が崩壊する寸前になって項董自ら指揮する本隊が先陣に追いついてきた。
「よくぞ耐えた!反撃ぞ!」
若僧に目にものを見せてやる、とばかりに総攻撃を命じようとした矢先、条元が見北領に攻め込んできたという報せが早馬によってもたらされた。
「くそっ!どいつもこいつも火事場泥棒ばかりだ!」
あるいは条元と新淳は示し合わせているのではないか。もしそうであれば、項董は難しい判断をせねばならなかった。このまま新淳軍と交戦していては季陽を落とされてしまうだろうし、季陽の救援に駆けつけようとすれば後背を新淳軍に晒してしまうことになる。項董は悩んだ挙句、新淳に使者を送ることにした。
「永年にわたり昵懇であった我らがここで争うのは何かの行き違いであろう。お互いのためにも矛を収めないか?」
当然ながら条元軍に侵略されていることは伏せた。もし、新淳が拒否をしたのならば、条元と示し合わせているのは明白であり、そうであるならば死力を尽くして新淳軍を殲滅するつもりでいた。しかし、新淳はこの講和に応じた。
「項董が和を乞うてきた!」
新淳からすればそれが愉快であったし、何よりも項董軍の猛烈な攻撃に自軍が疲弊し、このままでは敗走するのではないかという恐怖があった。講和はまさしく渡りに船であった。
使者を往復させ、講和を成立させると項董は軍を返した。条元軍が季陽に殺到する前に帰還しなければならなかった。




