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七国春秋  作者: 弥生遼
黄昏の泉
58/959

黄昏の泉~58~

 義王朝五四二年九月二十一日。異変は泉国北方で発生した。それまで不気味な沈黙を守り続けてきた翼国が大規模な軍事行動に出たのである。その規模はおよそ五万。一週間あまりで三つの城を攻め落としたのである。

 泉国の北部を守備するのは相房の第四子、相宗如である。北部の大邑である泉冬を拠点としている彼は、翼国の大侵攻の報せを受けて顔色を変えた。普段沈着を持って知られる相宗如らしからぬ動揺を見せた。泉冬には一万足らずの兵しかいないのであった。

 「すぐに泉春にいる主上にお知らせして援軍を請う。それと近隣の兵を泉冬近郊に集めるのです」

 動揺しながらも相宗如は適切な処置を下した。相手が大軍となると、兵力を分散させて複数の小さな拠点の防衛に拘るよりも、それらを集めて大軍を形成した方が有利であると判断したのである。

 「宗如様。泉春への使者にはぜひ私をお遣わしください」

 そう名乗り出てきたのは備峰という家臣であった。相宗如の傅役を務めてきた老臣で、その性格は厳格と知られ、かつて泉春宮では雑談をしていた官吏も備峰は目の前を通れば私語をやめたといわれるほであった。

 「いや、備峰は私の傍にいて色々と助言をして欲しい。泉春への使者は他の者をやりましょう」

 備峰の助言が欲しいのは事実だが、それ以上に援軍を請う使者には備峰は不適格だと相宗如は判断した。現在、泉国の兵権を事実上握っているのは兄である丞相である相史博である。備峰が行けば援軍を請うどころか、相史博の政治体制を批判し口論となるだろう。

 『最悪の場合、援軍を望めぬかもしれない……』

 相宗如はそこまで覚悟していた。相史博は相宗如のことを快く思っていないし、何よりも南方では樹弘とかいう真主が立ち、圧迫されている。援軍を出す余裕がどれほどあるか相宗如には分からなかった。

 『姉上もそうではないか……』

 相宗如は肉親の中で唯一心許せる相蓮子のことを思った。彼女もまた援軍が望めぬ中戦い、最後は味方に殺された。

 『私も姉上のようになるのか……』

 相宗如自身、死への恐怖がないわけではない。しかし、それ以上に、援軍もないまま死しか待っていない戦いに将兵を巻き込むのがとてつもなく辛かった。

 相宗如はそっと懐に手を入れた。そこには遺品となった相蓮子からの最後の手紙を忍ばせていた。それに触れるだけで相宗如は幾分か落ち着くことができた。


 一方の翼国は翼公自らが軍を率いて泉国に侵攻してきた。これには静公の意思が多く絡んでいた。樹弘を支援したい静公は書簡をもって翼公を説いたのである。

 『今、泉国は乱れております。老公の宿願を果たすのならまさに好機ではないでしょうか?』

 翼公の宿願とは泉国への復讐である。翼公が国を追われ各国を放浪していた時、泉国は翼公を冷遇した。そのことを翼公は根に持っていた。放浪の末、故国に帰り着いて国主となった翼公は、すぐさま泉国を侵略し、瞬く間に十の城を奪った。これについては多額の賠償金と引き換えに泉国に返還したが、それでも翼公の恨みが完全に消えたわけではなかった。

 『静公は新たな真主を支援しているな……』

 翼公も聡明で知られている。静公の意図などお見通しであった。

 『ここは静公の口車に乗せられてみるか』

 翼公としてもここで出師しても損はあるまいと判断した。数城でも奪えればよし。奪えぬにしても、相房軍を痛めつけることができれば、世話になった静公の思惑に沿うことができる。さらに幸いなことに敵対していた条国は静国と交戦状態にあるため翼国に侵略してくる可能性は極めて低かった。翼公は軽やかに腰を上げたのだった。

 翼国の軍は当時中原でも静国と並んで精強とされていた。とりわけ騎兵については数も質も中原では並ぶものがなく、泉国に侵入するや否や、野で相宗如軍を破り、瞬く間に三つの城を攻め落とした。ここで勢いに乗って進軍しないのが翼公の老獪なところであった。緒戦では一気に攻め込み相手を動揺させ、それからひと息ついて相手の動揺が拡大し拡散するのを待つ。翼公が得意とする戦法のひとつであった。

 そしてもうひとつ、翼公には密かな思惑があった。

 『相宗如は一角の人物と聞く。その資質を見極め、場合によってはわしの手で泉国の国主とさせるのも一興であろう』

 樹弘を支援する静公を出し抜き泉国を間接的に支配する。翼公はそこまでのことを考えていた。

 そのように考えた翼公は相宗如に会談を申し出た。会ってその資質を直接見極めようとした。

 この提案がもたらされた時、相宗如は泉春からの援軍がないことも知らされていた。

 『多事多忙につき援軍は不可なり。現存兵力で阻止せよ』

 兄である相史博に面会した使者が言われたのはそれだけであった。丞相としての責任感も兄としての情愛も感じられない無機質なものであった。その言葉を伝え聞いた相宗如は怒るよりも落涙した。延臣達は兄の非情さを悲しんでいるのだと思ったが、相宗如から漏れた言葉は違った。

 『これで私は多くの兵を死なすことになるかもしれない。そう考えると将兵やその家族に申し訳が立たない』

 相宗如の情愛は肉親ではなく部下である将兵に向けられていた。このことに感涙しない延臣はいなかった言う。誰しもがこの若き俊英のために死のうと決心を固めた瞬間であった。そこへ翼公からの面談の提案が来たのであった。

 「会いましょう。交渉によって相手を撤退させることもできるかもしれないし、時間稼ぎにもなる」

 勿論相宗如は翼公の傀儡になるつもりはない。ただ他に活路を見出すにはこれしかなかったのだった。

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