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七国春秋  作者: 弥生遼
黄昏の泉
56/958

黄昏の泉~56~

 相蓮子軍に勝利した樹弘は、一夜明けても戦場にいた。一睡もすることなく、相蓮子捕縛の報せを待っていた。その間、文可達の部隊を貴輝へやった。貴輝の守備兵はすでに自軍の敗走を知っていたので無抵抗で降伏した。

 『敵兵であっても降伏する者には寛容な態度で。もとは同じ泉国の人間ですから』

 樹弘は文可達に事前にそう指示していた。文可達も勿論そのつもりでいたので降伏した兵士達を処罰することなく、樹弘軍に参加したいという者は受け入れた。同時に貴輝において相蓮子の探索を行ったが見つけることはできなかった。樹弘は相蓮子を見つけるまでは貴輝に入るつもりはなく、只管待ち続けた。

 樹弘のもとに相蓮子の首が届けられたのは二日後のことであった。相蓮子の首とそれを携えて降伏してきた側近達に接した樹弘は、一瞬顔色を青くさせたが、すぐにその瞳には怒りの炎が点った。傍にいた景朱麗は今にも樹弘が剣を抜くのではないかと恐れたほどであったと後に語っている。

 相蓮子の首は土気色に変色し、かつての美貌を感じさせなかった。それをじっと見つめていた樹弘は、冥福を祈るように少しの間目を閉じると、ようやく口を開いた。

 「朱麗さん。僕は泉国の法令について無知だ。この卑怯者達に与えるべき罰を知らない」

 景朱麗はすぐさま樹弘が何を言わんとしているのか分かった。それに対して相蓮子の首を差し出すことで命が助かり、褒美をもらうこともできるかもしれないと淡い期待をしていた側近達はやや呆然としていた。

 「泉国の軍律ですと、上官を殺傷した者は死罪となっています」

 景朱麗は側近達にも聞こえるように大きな声で言った。樹弘は力強く頷いた。

 「僕が何時、相蓮子を殺してその首を持ってこいと命じたか!相蓮子は敵ながら一角の人物であり、兵士達の人望も篤かった。相蓮子のために命を投げ出した兵士達も多いというのに、貴様らは彼女を守るべき側近でありながらそれを害し、助命を請うた。それを卑怯と言わずして何と言う!」

 樹弘の剣幕に側近達はようやく事態の重大さに気がついた。彼らは樹弘が少年であるということで楽観、あるいは舐めていたのかもしれない。ある者は俯き震え、別の者は今にも失神しそうなほどに青ざめていた。

 「しかし、相家の軍には別の軍律もあろう。僕のもとに降ってきた相蓮子の旧臣達に裁きを任せるか、それとも自らの行いを恥じて自裁するか。好きなほうを選べ」

 樹弘は選択を迫った、相蓮子の旧臣達は、決して側近達を許さないだろう。きっと側近達を人間が考えうる限りの残忍さをもって嬲り殺すかもしれない。それが分かっているからこその二者択一であり、自裁を選択肢に入れたのは最低限の慈悲であった。

 「しゅ、主上!お、お慈悲を!」

 側近の一人が縋ってきた。樹弘は煩わしそうに一瞥しただけで天幕へと引き上げていった。

 「一刻の猶予をあげましょう。それまでに判断することです」

 景朱麗は樹弘の後を引き継いだ。一刻後、側近達は自裁して果てていた。


 樹弘軍はそれからも戦場に一日留まり、敵味方の将兵の遺体を収容し、埋葬して慰霊碑を建てた。そこには相蓮子の首と後で発見された胴体も埋葬された。このことは樹弘に降伏した相蓮子軍の将兵を感動させ、進んで樹弘軍の参加する者が続々と増えていった。ここでようやく樹弘は貴輝に入った。貴輝の長老達は樹弘を歓迎し、宴席を設けてくれた。

 樹弘は歓待を受けながら忙しなく挨拶をしてくる街の有力者達に微笑を向けていたが、本心で笑っていないのは確かであった。傍から見ていて景朱麗は心が痛くなっていた。

 『主上は無理をされている……』

 身体的疲労もあるだろう。相蓮子の件についての精神的に疲弊もしているだろう。それでも真主として振舞おうとしている。景朱麗は頭が下がる思いであるが、あれほど真主となることを避けていた樹弘とはまるで別人のようであった。

 夜半になり樹弘はようやく解放された。疲れきった表情の樹弘が部屋に戻るのを見届けた景朱麗であったが、やはり樹弘のことが気になり、引き返してきた。

 「主上。朱麗です。お話が……」

 扉を叩こうとすると、中から樹弘の呻き声が聞こえた。いや、呻き声ではない。泣き声であった。

 「主上。失礼します……」

 景朱麗が何か入ろうとすると、背後から肩を掴まれた。振り向くと妹の景蒼葉であった。

 「蒼葉……」

 「気持ちは分かるけど、どうやって今の主上を慰める気?」

 「どうやってって……。分からんが、主上の様子をご確認しないと……」

 「確認しなくても分かるでしょう?蓮子のことを悔いているのよ。命を救えなかったどころか、ひどいことになってしまったからね。主上は自分のせいだと思われているのよ」

 そのようなこと妹に説明されるまでもなかった。だからこそ何事か声をかけて樹弘には立ち直っていただかなければならないのである。

 「冷たいようだけど、今後もこういうことが起こり得るのよ。その度に姉さんは悲しむ主上を励ますの?ひょっとすれば私や姉さんが死ぬかもしれないのに……」

 景蒼葉の指摘は鋭かった。相房との戦いは今度も続く。その過程でまた今回のような悲劇が起こらないと言い切れるだろうか。ここで景朱麗の励ましで樹弘が立ち直ったとして、もし景朱麗自身が亡くなった場合、誰が樹弘を励まし立ち直らせるというのか。あるいは精神の拠り所を失い、一生悲しみの淵から生還できないかもしれないのだ。

 「ここは主上がお一人で立ち直っていただくしかないのよ」

 景蒼葉の言い様は非情であり薄情であった。だが、この場合は正論としか言いようがなかった。

 「今は主上を信じましょう。私達の主上はそんなやわじゃないわ」

 この時ばかりは景蒼葉の方が姉のように思えた。景朱麗は妹の言葉にただ頷くだけであった。

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